思い出作り嫌い


9月、ライブハウスで仲間のライブ出演があり久方ぶりに福岡で音楽を鳴らした。ワンマンライブのゲスト出演、大切な日。やれることはすべてやる、音楽を鳴らし終わってまだ熱が冷めないうちにその日の主役達が演奏をはじめた。数曲終わる頃に母から連絡がはいる、『手が空いた時に電話がほしい』と。嫌な予感がする、そうおもってすぐ電話を掛けようと思ったが勇気がでなかった。

『余命』の宣告が短くなった、簡単にいうとそういうものだった。
数年と言われていた命は年内までもつかわからない、主治医から母にそう告げられたらしい。選択肢はこれからも治療を続けるのか、それとも終末ホスピタルにはいって自宅での”最期”に備えるのか、といったものだった。

「どっちがいいと思う?」
さっきまでほどよくアルコールとライブの余韻で身体が浮いていた感覚はなくなり、地上に叩き落とされたように言葉がでなかった。どっちがいいとはなんだ、その選択は家族がしなければいけないのか。沢山の疑問がまだ渦巻いている最中に気づいた。母はもう選んでいた。どちらにするか。そして家族にその選択を間違っていないと言って欲しいと求めているような声色だった。あんなに父との日々を愚痴っぽくもらしていた母がまるでどこにもいなくなったかのように、父の最期を真剣に考えていた。

「答えはだせない、父さんに決めてもらわなきゃ」
その場を逃げるように、一番近い正解であろう言葉を伝えて選択から逃げた。

「でも家族の意見を聞きたいの」
最難関の家族の最期がどうあるべきなのか、父親がいよいよその時を迎えた時、身体が悲鳴をあげ、管に繋がれ生物としてかろうじて生存している状態を選ぶのか、人としての尊厳、皆と生きた家で最期を迎えるのか。

結局、答えることができずに電話を切った。
父と母が出した答えは、最期まで長く家族と生きるという”延命の選択”だった。


「10月にはいったら家族旅行に行きたい」
父は行きたい場所があったらしい。正直、うちの家族は家族団欒といったカタチの休日をすごしたことがない。というのも、僕が少年野球をやっていたせいで土日を大体潰してしまっていたのだった。だから、家族全員で旅行や遠出をした記憶は幼稚園までで、それ以外はない。だからすごく気が進まなかった。言葉にできないけど、慣れなかった。家族団欒で外食をするときいつもブスッとしてしまう、素直になれないのか、どう過ごせば、どう言葉を交わせばいいのかわからなかった。家族という、一番近くにいる他人。そのなにもかもわからないはずなのに、なにもかもわかって、この先の未来も全て把握している感じがとても居心地が悪かった。

父も無口で、そこまで喋るほうでもないし意見や率先して先導するタイプでもなくそこに佇んでいるような人だったから『行きたい場所』があると母に話したのはとても珍しいことだった。最期になるかもしれないと思うと別に断る必要もないから「予定を空けとくよ」と伝えてその日は帰ることにした車を走らせ自分が生きている街に帰ってきた頃、父の容体が急激に悪化したとの連絡がきた。

診断結果はコロナだった、身体がただでさえ衰えてしまっているうえで体力を限りなく消耗する病に父は一時期昏睡にも近い状態だった。その時、ずっと考えないでおこうと思っていた”父が去る日”を意識せざるをえなかった。

結局は一命を取り留めたが、僕たち家族に告げられたのは”終末”へむけた話だった。簡単に説明すると、もう体力がなく、このまま投薬治療を続けようにも身体が先に朽ちてしまうといった話だった。そして父は10月を超えれるかどうかわからないと説明された。



10月の旅行は中止になった。父はレンタルできる医療機材が揃えられた自宅へ戻った。もう1年前の元気な父親はそこにはいなくて、太陽を避けた日々をおくっていた身体は痩せ細り、あんなに日焼けしていた肌は、恐ろしいほどに白くなっていた。実のところ、思い出作りをいまさらしてしまうことが怖かった。願わくばキャッチボールや、散歩だったり、もう少し元気なときにやろうと思えばやれたはずなのに、最期を迎えたあとにそれを思い出してしまったりすることもそうだけど、”綺麗に思い出として残すため”に思い出作りをしてしまうことが嫌だった。写真の一枚だって残すことがなぜかできる気持ちの余裕がなかった。

その最期が近づいてくるにつれ湧き出てくるのは『出来た息子』にはなれなかったという申し訳なさだった。家から飛び出して好きなことを腹一杯好き放題させてもらえて、そして色々な迷惑をかけて、それなのに会話も全然してこなかった。『お前はお前のことを頑張れ』と言われた身ではあるけれど、父の看病だって、実際のところの多くは母と妹にまかせっきりだった。

父親を喜ばせようとする”パフォーマンス”、”出来た息子を演じて安心してもらう”それがどうしても目の前にいる、ここまで育て上げた父親に対して無礼な気がしてならなかった。

でも、もう家にいる父とはなにもできない。散歩だったり、キャッチボールだったり、運動のようなことはできない。ただ残された時間が過ぎていく。

そんな折に親族、姉夫婦の叔父たちが”食事会”をしようと提案してきた。
父は母方の親族からとくに気に入られていた。叔母も叔父も、祖母も姪っ子も甥っ子も、なぜか好かれていた。

「10月1日親族一同であつまるから、それまで元気でね」
っと日付が決まってから、
父には奇跡が起きたようにみるみると体力が戻っていった。
そして、迎えた食事会の日に父は自分の足で立ち、料理をつまんで久方ぶりに自然な笑みが溢れていた。話の軸にいるのではなく、誰かが話ているのを聞いて笑っている。そういえば、いつもそうだったかもしれない。その時、あぁなるほど父は『楽しく空気がながれる場所』がとても好きで、父がいると自然とそういった空気になっていたっなと、そこで気付かされた。

あれがきっと”佇む”魅力なのだと思った。


それから緩やかに体力が落ちていき、また父は床に伏せた。そのうち病院にもどらないといけないほど数値が悪化して大学病院へ搬送された。
母と見舞いにいったとき、はじめて『父さんと二人っきりにさせてくれないか』と頼んだ。多分、これから話すことは父と最期の二人っきりの会話になりそうな気がして。

いい息子を演じることも、パフォーマンスすることもできなかった僕ができることは今のありのままを伝えることだった。

近況を報告した、実はうまいこと生活できるくらいのお金は稼げている。仲間には大変恵まれている、よくしてくれる先輩たちがいる。紹介できるような人はいないけれど、一人で小さなアパートで暮らしている。

それから今までの話をした。
親父に話したことなかったけど、実は鈍行列車を使って北海道まで旅したことがあって、そこの景色や空気や人が素晴らしかった。帰れなくなって途方にくれるって言葉にぴったりな時間をすごしたことがあった。何不自由なく生きて来れたことが誰のおかげだったのか、そこまで行かないと気づかないくらい馬鹿な息子でした。

昔大工職人の同僚たちが家に来た時に父さんが慕われていることをこっそり教えてくれた職人がいた、悪く言う人がいないくらい、たまに騙されやすかったりするけど仲間思いだと聞かせてくれた。それを聞いて今は少しだけ、父さんのそういう人から好かれるところは受け継いだのかもしれないと思っている。人から恵まれている。

音楽では食えていけてるとは言い難いけど、続けていけている。曲もつくったし今度小さなハコで単独公演もする。仕事にはしなくてもいいかもしれないと最近思っているんだけど、作ることが今はとにかく楽しいし楽器を鳴らすことは今も飽きずにのめりこめている。

小学校から、高校まで野球を続けさせてくれたから、今はスポーツ部門の仕事に携わっている。あの時、そういった経験を続けさせてくれたことが今にちゃんと生きている。そういえば、僕が好きな野球選手は今もホークスの先発ローテションで投げている、プロ20年目の和田毅は今もとてもすごい選手だ。

自分の身体が人と違うこと、そういうことで理不尽に生意気なことを言ったり、言ってはいけないことを言ってしまったことがあったけど、今は反省している。実は、それで差別をうけたり、馬鹿にされた経験がない、多分親の育て方が良かったことと、何度も言うけど人に恵まれたからだと思う。


ありったけ、自分の人生を全部振り返って、感謝を伝えた。伝えきれなかった部分もあった、言葉だけじゃ足りない部分も沢山あった。父はただ、口をニヤリとさせ話を聞いてくれた。

最後まで聞いて、ゆっくりと一言だけ
「俺の人生も人に助けられたことや恵まれたことばかりだったぞ」と語った。ただそれだけ、ゆっくりとした口調で、でもハッキリと。

「最後に頼むが、母さんや兄弟をよろしく、それと弔辞はお前が読んでほしい」父親は帰り際にそう僕に伝えてきた。ちょけて返そうと思ったけれど『わかりました』と堅苦しく返事をしてしまった。
「お前のライブはいつや」と父から聞いたこともないセリフが飛び出してきた。慌てて「10月27にだけど…」と返事をすると「それまでは逝かないから頑張ってきなさい」と言われた。窓から落ちてきた陽が差し込んで、緩く心地良い風が通り抜けた。いい息子ではなかったが、父のもとで育った息子が最初で最期の素直に自分のことを話せた日になった。


つづく。






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