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虚構を愛し、ヒーローを呼ぶ。『仮面ライダー 平成ジェネレーションズ FOREVER』

 「平成ライダー」という言葉は、ライダーファンや作り手の間で使われる、一連のシリーズを総称する言葉という範疇を超え、2014年公開の映画『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊』では作中の登場人物たちが自らを「昭和ライダー」「平成ライダー」と名乗るシーンが描かれた。ヒーロー同士の対立軸として元号による区切りを設け、それを作品世界の住人が自覚するという構造を、いつしかファンも受け入れていた。2000年の『クウガ』から始まった、時代の変遷と共に試行錯誤を続けてきたシリーズも『ディケイド』で型破りな統合を果たし、続く『W』以降の「第2期」と呼ばれる、新たな10年が始まった。

 全ての始まりから20年の記念すべき年が、平成という時代の終わりを告げる年であることに、不思議な縁を感じる者も多いはずだ。当然それを東映側が意識しないはずがなく、平成最後の劇場版に、20年間の集大成をぶつけてきた。平成ライダーを愛する全ての者に贈る、「ありがとう」の想いが詰まった90分強。1999年に7歳だった、一人のライダーファンとして、こちらも精一杯の「ありがとう」を返したくて、キーボードを叩いている。

仮面ライダージオウ=常盤ソウゴと仮面ライダービルド=桐生戦兎は、仲間たちが突如記憶を失っていく異変に気付く。そんな中、アナザーWとアナザー電王は、シンゴという少年を追っていた。シンゴを守る最中、ソウゴはライダーファンの青年アタルと出会い、戦兎は全ての黒幕であるタイムジャッカーのティードに挑むも、洗脳されてしまう。
平成ライダーの消滅を目論むティードとの対決を前に、アタルは驚愕の真実を告げる。この世界は、「仮面ライダー」がTV番組として放送される、ライダーこそがフィクションである世界であることを。
自分たちは虚構の存在なのか―?悩めるソウゴたちを尻目に、ティードは全ての平成ライダーが始まった地、九郎ヶ岳遺跡にて覚醒を迎える。

※以下、本作のネタバレが含まれます。

 いきなり身も蓋もないことを言ってしまえば、本作のストーリーの完成度には難がある。致命的な破たんはしていないものの、放送中の『ジオウ』TVシリーズや『ビルド』との整合性を含めた、設定面での「緻密さ」に欠ける、という意味においてだ。「生み出された時代に、対応するライダーのアーマーでなくては倒せない」アナザーライダーの設定は無視されたり、新世界創造によってライダーでは無くなった(記憶もベルトも失った)一海や幻徳もあっさりとグリスとローグに変身できてしまう。

 当然、各作品と地続きであることを意識して鑑賞していた“大きなお友達”は、ここで大きなノイズが生じることは避けれれないのだが、そこにはある秘密があった。作中の現実世界は、イマジンであるフータロスと契約したアタルの「ライダーに会いたい」という願いによって、ライダーたちが引き寄せられてしまった状態に。すなわち、一海や幻徳も「ライダーに変身できる状態で」アタルの世界に召喚(という言葉が正しいのだろうか)されたというわけである。『ジオウ』2話で葛城巧に戻った戦兎も、『仮面ライダービルド』の桐生戦兎として活躍するわけだ。強引だが、理屈は通っている。

 そんなアタルの願いによって改変された世界が生まれた下地として、今度はティードの企みが重なる。ティードはクウガが生まれる前の時代の九郎ヶ岳遺跡に現れ、その力を奪うことで平成ライダーが「存在しなかった」歴史を作り、結果としてライダーたちがフィクションの存在に追いやられてしまった。しかし、歴史改変の干渉を受けない「特異点」という体質を持つシンゴが、TVで放送された平成ライダーたちを記憶していたため歴史は修復され、平成ライダーは復活。それを阻止するためにティードはシンゴを狙うのだが、そこにアタルの願いが重なり、「仮面ライダーがフィクションでありながら、現実に飛びだしてきた世界」が発生してしまう。

 そうした複雑な本筋が少しずつ明かされていく序盤~中盤の話運びは、やや鈍重に感じられる。本作のメインターゲットが幼児であることを念頭に置きつつも言及するなら、シンゴとアタルの関係性についてはすぐに察しがついてしまうし、アタルが心境を吐露するシーンもどこか切迫感が伝わりにくい。その上、「仮面ライダーがフィクションの存在ならアタルとフータロスが出会うことはないのでは?」という説明のつかない矛盾が生じているし、ティードが平成ライダー消滅を目論む動機が描かれないのは致命的と言っていい。悪役だから、と言われればそれまでだが、歴史を改変する大きな力を持つ宿敵の目指すゴールがどこにあるのかが不明瞭で、ちっとも魅力的な敵に映らないのだ。

 このように作劇面で粗が目立つ本作は、整合性という点では昨年の『平成ジェネレーションズFINAL』が理想的だったこともあり、筆者のようなファンからアレコレ指摘を受けやすい、隙の多い一作に仕上がっている。悪い良い方をするなら、勢い重視の春映画の兆候が見え隠れするバランスに陥っており、どうしても気になってしまう。

 しかし本作の場合、そうした欠点を補って余るほどにほとばしる「作り手のライダー愛」が、観客の胸を熱くさせたのは間違いない。その対象は前述した、本来のメインターゲットである幼児を狙ったものではなく、平成ライダーを観て育った「俺たち/私たち」にまで射程を広げており、その心意気と配慮に、涙せずにはいられないのだ。

 物語のキーパーソンであるアタルやシンゴは、言うまでも無くこの映画を観ている「俺たち/私たち」の立ち位置のキャラクターだ。18歳になっても仮面ライダーが大好きで、部屋にはベルトやフィギュアがたくさん並んでいる。そんな彼と同じ心を持っているなら、いや、持っているからこそ映画館に駆けつけた「俺たち/私たち」が信じたから、そこにいると思ったから、「仮面ライダーはいる」のだ。仮面ライダーはTVの中の出来事、物語、フィクション。だからって彼らが偽物になるわけじゃない。仮面ライダーを愛した者たちの想いが、仮面ライダーを本物にしていく。「仮面ライダーが好きだ」という感情を、この映画は真っ直ぐ肯定してくれた。これ以上の幸福があるだろうか。

 そんな本作のテーマを補強するかのように、平成最後の特大サプライズが用意されていた。誰もが薄々諦めていた、佐藤健による野上良太郎の再演が、ついに叶った。「人の記憶こそが時間」であることを描いた『電王』のロジックは、本作における平成ライダー復活の理屈とも通じており、それを良太郎と石丸謙二郎演じるオーナーの口から語られてしまえば、我々シリーズファンは納得せざるを得ない。しかも、モモタロスが発したある言葉が、10年振りに帰ってきた佐藤健に対してのファンの想いを代弁しており、この瞬間のなんと感動的なことか!劇場に駆けつけたファンのどよめきと、すすり泣きの声がそれを物語っていた、忘れられない名場面だ。

 その勢いのまま本作は、クライマックスの平成ライダー集結シーンに至る。アギト・龍騎・ディケイド・ゴーストはそれぞれオリジナルキャストによる新録ボイスが当てられており、その他のライダーもライブラリ音声を使用するなど、「彼ら」がそこにいることを訴え続ける。アクションシーンのこだわりにも一切の妥協が無く、美麗に舞いながら蹴り技を繰り出すウィザードや浮遊しながら戦うゴーストのように、各キャラクターの個性をしっかり活かした個人戦もありながら、カブト・ドライブ・555の高速移動つながりといった、クロスオーバーならではのコンビネーション技も披露してくれる。トドメの連続キックも、各ライダーの印象的な動作をしっかり拾っており、いい加減なアクションは一切見られなかった。

 平成ライダーも20作を数え、劇場に駆けつけたファンそれぞれに想い入れがある。だからこそ、その熱量を損なわないよう細心の注意を払ったであろう、各ライダーのアクションの演出に、またしても涙が止まらない。確かにそこに五代雄介が、津上翔一が、肩を並べて闘っているんだと、信じさせてくれたこと。平成ライダーが積み重ねてきたもの全てを総括するような、圧巻のクライマックス。毎作モチーフを変え、一人一人が強すぎる個性を持つ平成ライダーたちが織りなす、最高のクロスオーバー。ただただ、感無量である。

 かくして、平成ライダー劇場版史上最も謎に包まれた一作がついに公開され、最高のサプライズと至高のアクション演出に、ただただ打ちのめされながら、何度も感動の名場面を脳内で反芻している。そしてそれは、平成ライダーをずっと観てきたからこそ得られる感動であることが、何よりも嬉しくなってしまう。「仮面ライダーが好き」という気持ちが、こんな形で報われる日が訪れるなんて。そんな稀有な体験をしたことを、これからもずっと忘れることはないだろうし、時代が変わっても続いていくライダーシリーズを、これからも追っていこうと決意した、大切な一作だ。

 ありがとう、平成ライダー。

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