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感想『舞台/小説 仮面ライダー斬月』呉島貴虎が挑む『鎧武』の再演と「変身」の証明

 一ヶ月まるまる費やすことになった鎧武マラソン。ついに舞台『斬月』に至るが、個人的にはついにここまで来た!という想いがある。

 というのも、今回『鎧武』を見直すきっかけになったのが、久保田悠来ファンの知人の「斬月舞台を観てくれ」という強いリクエストがあったから。舞台はそれ単体でも楽しめるとは言われたものの、どうせ観るならシリーズ全史を押さえて最大級に楽しめるような状態にしよう……10周年だし……と1話を再生したのが全ての始まり。まさかここまで作品愛が再燃するとは思わず、嬉しい誤算という他ない。改めて、感謝申し上げます。

 舞台発表時点こそ驚きはしたけれど、小説版が文句なしのフィナーレを飾った以上、もう『鎧武』で何をやるのか?という想いもあり、現地や配信での観劇には至らず、今回Blu-rayで鑑賞。オリジナルキャストが久保田氏しかいない作品にそこまで惹かれていなかったし、仮面ライダーやウルトラマンの舞台について全くの無知であったため、正直ナメていた、というのが当時の自分。そして2023年末、その愚かしさを自分で呪う羽目になるとは思わなかった……。めちゃくちゃ面白いじゃん、舞台斬月……。

 というわけでまずは舞台演出について。驚くべきはちゃんと“仮面ライダーの映像作品の翻訳”になっている、ということ。生身の演者とライダー(のスーツを着た人間)とが同じ舞台上にいて違和感なくドラマが進行し、映像作品ではCGやカットの切り替わりで処理できる変身や武器の取り出しについても、投影映像や仕切りを使った演出でシームレスに行っている。先日観たウルトラマンの舞台や『鎧武』のファイナルステージでもそうだったが、モニターなどの舞台装置を使った演出を活用することで特撮らしいウソを出来る限り舞台上で再現する、その技法がまず興味深い。

 今回で言えば、観客から観て舞台を前後に仕切るスクリーンが上から降りてきて、アーマードライダーへの変身で印象的な「果物のアーマーが降りて展開する」を再現した後、スクリーンが上がると“そこ”にライダーがいる、という演出が多様されている。これは俳優とライダーとが入れ替わるための目隠しになりつつ、舞台の都合で物語を停滞させない工夫になっているし、花形であるライダーの登場への前フリとなっているので「いよっ!待ってました!」という盛り上がりを観客へ煽ることにもなる。数々のショーを手掛けてきたノウハウが注ぎ込まれたであろう今回の『斬月』は、舞台でありながら仮面ライダーを観ている感覚がしっかり伝わるという、ちょっとクラクラする観劇体験となっている。

 そして舞台上で煌めくキャスト陣も、もれなく素晴らしかった。思えば『戦国BASARA』の舞台で伊達政宗を演じきった久保田氏の久しぶりの舞台への凱旋ということで、座長としての経験も貫禄も申し分ない。上演中ずっと顔がいいし、足が長い。染色体は同じなのに、人間として勝てる部分がまったく見当たらない。それについて悔しいという感慨が浮かばないくらい、メロンの君は生の舞台でも呉島貴虎であり続けたし、格好いい。

 その他のキャストも、実はそれぞれ『鎧武』のレギュラーキャラクターに該当する役が割り当てられているのだけれど、鎧武=葛葉紘汰に相当するアイム役の萩谷慧悟が、声の張り方と声質が佐野岳と瓜二つで「あっこれは紘汰だ」と本能で理解してしまうレベル。駆紋戒斗にあたるグラシャ役にはゾックス・ゴールドツイカーこと増子敦貴で、彼もまた駆紋戒斗のトレース力が異常に高く、この両者が激突するシーンはTVシリーズ45話の再演への説得力を存分に高めてくれた。初めましてのキャラクターばかりの本舞台を迷子になることなく観られたのは、このお二方のみならず舞台版キャストの全員の『鎧武』への理解力と、それを実際の演技として出力する技能の高さゆえなのだと、観劇中ずっと圧倒され続けていた。別のキャラクターのはずなのに、紘汰だ!戒斗だ!と錯覚させられっぱなしなのだ。

 芸達者にも程がある若きキャスト陣と、彼らを束ねる我らが久保田悠来。彼らが紡ぐ『斬月』の新しい物語のコンセプトとはなにかというと、本舞台はまるまる『仮面ライダー鎧武』という物語のパッケージ化に全力を注いでいるのでは、というのが素人目で抱いた所感である。理不尽な侵略、大人と子どもの対立、裏切り、力を求め闘う男たち、より大きな悪に手球に取られる悪い子の寓話。TVシリーズで描ききったあの熾烈な物語を、2時間にコンパクトにまとめてしまう、『鎧武』のいいとこ取りダイジェスト。

 ダイジェスト、と言うと聞こえが悪いかもしれない。だが、舞台化するための試みとして、本作の物語は実に巧い、と思う。というのも、本作は仮面ライダーファンに訴求する舞台であると同時に、(私の知人のように)2.5次元の舞台ファン、舞台俳優ファンへもリーチする作品だ。であるのなら、当然『鎧武』を知らない層に届くこともあるだろう。

 故に本作は、『鎧武』の後日談ではありつつも貴虎を記憶喪失にし、TVシリーズと似通った世界観とキャラクターを用意することで、『鎧武』ファンには呉島貴虎の地獄巡りを一緒に歩かせ、逆に舞台と俳優目当てでお越しになった観客には「鎧武ってこういう話なんですよ」と提示する。特撮ファンには舞台を、舞台ファンには特撮を。並走していればより楽しく、片方から知らないのなら新しい領域へタッチする、そんな舞台を実現させるための『鎧武』の再演に着手した本舞台は、このようなクレバーなコンセプトがあったのではないだろうか。言い忘れたが、本作の脚本はみんな大好き毛利亘宏さん。劇団「少年社中」の演出・主宰であり、ゴリゴリに舞台に精通している方が手掛けられている。この座組に勝算あっての『斬月』に違いない。

◆STORY◆
 
進む貧困と止まない紛争によって衰退の一途を辿ることとなったトルキア共和国。かつてそこは巨大企業ユグドラシル・コーポレーションによるプロジェクト・アークの実験場となっていた。すでに役目を終えたはずのその地で異変が起きているとの情報を得た呉島貴虎は、約8年ぶりにトルキア共和国に足を踏み入れるが、予期せぬ襲撃を受け、巨大な穴の底に広がる地下世界・アンダーグラウンドシティに落下してしまう。

 トルキア共和国で最も危険な場所、アンダーグラウンドシティ。多くの少年、青年が生き残るための殺し合いが行われていた。そして、そこでは戦極ドライバーにロックシードを装着し、アーマードライダーに変身した者たちもいた。血の流れる殺し合いの場にボロボロの姿で倒れこんだ貴虎は、落下の衝撃で記憶喪失となり、自分の名前すら思い出せない状態になっていた。チーム“オレンジ・ライド”のリーダー、アイムによって助けられる貴虎。そんな中、突如現れる見知らぬアーマードライダー。その驚異的なパワーにざわつくアイムたち。貴虎は朦朧とする記憶の中で、そのアーマードライダーが「斬月」であることを思い出していた。

 アイムたちに協力を仰ぎ、失った記憶を取り戻す手掛かりであるアーマードライダー斬月をおびき出す計画を立てる貴虎。だが同じ頃、貴虎の行動や抗争の様子を街中に仕掛けたカメラで監視し続ける男がいた。その男は、ある理由から貴虎に復讐を遂げようとしていた…。

公式サイトより

 時系列としては、冬映画→Vシネマ『ナックル』→小説版の、さらにその後日談となる本作。貴虎はプロジェクトアークや戦極ドライバーにまつわる後始末に尽力しており、小説版ではロシアへと赴いていた。思えば、このフォーマットであれば無限に物語が生成できるわけだが、貴虎ばかりが己の罪と直面させられてばかりで、少し可哀想にもなる。なにせ本舞台もかつて呉島貴虎が犯した罪と後悔にフォーカスすることで、「自分は本当に変身できたのか?」という問いが巡ってくることになるからだ。

 かつてユグドラシルが実験場として利用していたトルキア共和国は、8年前の実験の失敗によりスカラーシステムが作動し、地上は焼き払われていて、残った国民は地下世界で生活していた。地下では「貴族」と呼ばれる大人が子どもたちを支配し、外の世界への脱出を釣り餌に戦極ドライバーとロックシードを流し、子どもたちをモルモット扱いしている。これは言うまでもなく、『鎧武』第1・2クールの対立の再演である。大人の身勝手な理想のために子どもたちが搾取され、その命も虫けらのように捨て去られてゆく。大人サイドの諸悪の根源である鎮宮鍵臣(演:『パラダイス・ロスト』野村役でおなじみ大高洋夫)も、貴虎の父・呉島天樹への嫉妬心を募らせた俗物であり、本舞台における人間の愚かさを一心に背負うキャラクターだ。

 そんなことも知らず、子どもたちは三つのチームに別れ乱世を争っていた。「オレンジ・ライド」「バロック・レッド」「グリーン・ドールズ」の三勢力は、TVシリーズ序盤のダンスチームに相当し、実際に舞台でもダンスシーンが用意されている。とはいえダンスは彼らの勢力争いには何ら関与せず、アーマードライダーとしての力がチーム同士のヒエラルキーに直結する点も、最短距離で『鎧武』の構造を思い出させてゆく。バロック・レッドのグラシャは駆紋戒斗、グリーン・ドールズのフォラスは城之内と初瀬を織り交ぜた役回りで、オレンジ・ライドのアイムはもちろん葛葉紘汰なのだが、「オレンジ・ライドのリーダーが現在行方不明」という不穏な情報が一気に緊張感をもたらしてくれる。

 何者かに襲撃され地下世界に降り立った貴虎は、一切の記憶を失ったところを、アイムによって助けられた。貴虎はこの世界の現状をアイムから聞き出す形で世界観の設定が観客に放り込まれ、原作ファンであればこの街が“かつての沢芽市”であることが飲み込める。そして、アーマードライダー同士の抗争に割って入った斬月を見て「俺はあれを知っている」と記憶が呼び覚まされることに気づき、斬月をおびき寄せ正体を探る作戦の協力を子どもたちに募る。これも、クリスマスのロックシード争奪戦を彷彿とさせる。

 記憶を取り戻すということは、呉島貴虎は過去を思い出すことになる。そこにいたのは、自分と一緒に実験の責任者として、そして親友として並び歩いた鎮宮雅仁の存在。ノブレス・オブリージュの誓いを自分に課し、愛する弟を持つ兄である雅仁は、貴虎の重責への良き理解者であっただろう。と同時に、雅仁は貴虎の影なのだ。雅仁は、8年前の実験の失敗によってスカラーシステムを起動し、トルキアの地を自ら共々焼き払った人物だ。一歩歯車が違えば、貴虎もこうなっていたかもしれない……。そう思うと、葛葉紘汰が沢芽市のスカラーシステムを破壊した行為の受け取り方も(後づけとはいえ)変わってくるものだ。

 そんな貴虎に兄の仇討ちをすべく近づく鎮宮影正は、貴虎が記憶喪失と知ると「貴虎の弟」を名乗り接触する……ご丁寧に龍玄に変身してまで!!大人を欺く嘘つきで、その嘘の代償に手痛い報いが返ってくるなど、影正は呉島光実のアナザーである。……あるのだが、光実とは違って影正はヒーローになるチャンスは与えられないままとある悲劇を迎えてしまうため、彼もまた光実の影なのだ。超全集に掲載の虚淵氏のインタビューでは“途中で死んでしまうキャラだった”という衝撃の事実が明らかになった光実だが、そのアイデアがこうして巡ってきた形だ。もし光実が影正の運命を辿ったなら、『鎧武』における「変身」の意味がぼやけてしまったため、こうならないで良かったと思わずにはいられない。

 影正の復讐劇は貴虎の逃れられない罪を意識させ、子どもたちはインベス化に怯えながらも力に頼らざるをえない。そんな中、死んだはずの雅仁が姿を表した。彼はスカラーシステムの業火を耐え、新たなオーバーロードとして生還。人類を超越した存在となった雅仁は、愚かな人類がプロジェクトアークをもってしても滅びるであろうと悟り、世界の覇権を握り自分が人類の導き手となることを新たなノブレス・オブリージュ持てる者の義務と定め行動する。

 人類を救うという共通の使命を持ちながら、誤った思想(フェムシンムがいかにして滅んだかを、原作ファンなら知っているはずだ)に傾き暴君となった雅仁。彼は今の貴虎を見て「お前は変わらない」と嘲り、弟の影正でさえも切り捨てる冷酷な存在へと変貌した。己が理想のためなら邪魔なものは全て排除する。それも「強さ」であると『鎧武』は語っており、オーバーロードへと至った雅仁も強者の一人に数えられるかもしれない。

 対する貴虎は、もうかつての貴虎ではなかった。世界を救うために大勢の犠牲もやむを得ないと、その罪を一人で背負おうとした貴虎。その重責に敗れ、愛する弟を失いかけた貴虎は、葛葉紘汰という一人の青年との出会いによって救われ、こうして生きている。貴虎は仲間と共に生きて、重い荷物を分け合える生き方を知っていた。もう彼は一人ではない。人を信じ、人を信じられる人間へと「変身」しているのだ。

 貴虎に与えられた新しい力、カチドキロックシード。神となった紘汰が与える救いの力として、斬月がカチドキに変身する。前述の通り、カチドキとは沢芽市のスカラーシステムを破壊した力であり、呉島貴虎にとっては沢芽市民大量虐殺の手段を奪った、ある意味で救いの力だ。そして、サガラが紘汰にこのロックシードを与えた際、この力は“この世界のルールそのものを破壊するもの”だと語ったことも乗っかってくる。大人が子どもを搾取し、そして異形の王が台頭しようとする今、その運命を打開する力としてカチドキが選ばれる。舞台ならではのサプライズでありながら、文脈上の説得力も備わっている、納得のパワーアップ。

 かつての友を斬り、呉島貴虎はこれからも罪を贖い続ける人生を送るのだろう。それでも、故郷には弟と仲間がいて、トルキアには未来を託せる若者がいて、この地球の外から神様が見守ってくれている。死して償うのではなく、生きているからこそ手を差し伸べ続けていく。それが今の呉島貴虎にとってのノブレス・オブリージュであり、未来を切り開く原動力なのだ。

 冬映画で貴虎の禊は終わったかな、なんて思っていたが、この舞台でよりズシンとくるフィナーレを観せてもらい、満足感でいっぱいだ。エピローグが乱立する異常事態となった『鎧武』だが、葛葉紘汰から救われた命を懸命に生き、それでも孤独ではないことをトルキアの若者たちとの触れ合いが示してくれる。貴虎の重荷が少しでも和らぐのなら、この舞台を観ることはファンにとっても救いとなるはずだ。呉島貴虎が辿る「変身」に新たな意味を付与してくれた舞台版『鎧武』は、ファンサービスとして100点満点のステージであることは保証したい。

 現在、特典映像を収録した本編DVD/Blu-rayほか、Amazonプライムビデオや東映特撮ファンクラブでの有料配信で視聴可能となっている(23年12月現在)。もし見逃しているのなら、これを機にぜひご覧いただきたい。

 そして、舞台の脚本を手掛けた毛利氏による小説版が発売済みである。こちらは舞台そのままをノベライズしたものではなく、貴虎以外の人物の視点から語られる物語と、その前日譚と後日談を収めたもの。

 小説版は主に影正、アイム、グラシャの視点で進行するが、もっとも文量が割かれているのは影正だ。というか、舞台では描ききれなかった(時間が足りていなかった)要素があまりに多すぎて、「こういう立ち位置だったの!?!?」と驚愕しながらページを進めたくらいである。

 影正は鎮宮家の仕事を任される年齢になったばかりで、最初の仕事は「子どもたちに戦極ドライバーとロックシードを流通させる」というもの。影正は光実だけでなく、シドの役割も果たしていた、ということだ。影正は権力目当てに近づいてくる貴族大人たちに辟易しており、父・鍵臣のユグドラシルへの対抗意識にも浅ましさを感じている。彼が信じるものは兄・雅仁だったわけだが、真実を歪曲させた父の言葉によって貴虎を仇と考えており、激しい憎悪を燃やしている。

 これだけならば話は早いのだが、影正は非情になりきれない青年だった。故に父が主導する地下世界での子どもたちを使った実験を許すことができず、出来るなら子どもたちを救いたいとさえ考えていたことが、小説版で明らかになる。舞台で受ける印象とはまた異なる、狡猾な面と正義感を併せ持った人物像が、真の影正なのだ。

 そして、そんな影正に父親の呪縛から解き放つ希望を一度は灯したのが、舞台では未登場のオレンジ・ライド前リーダーのサイモンだった。物語開始時点で行方不明、かつインベスと化して鎧武に斬られるとなれば、当然誰もが裕也を思い出さずにはいられない。だが、サイモンは誰からも好かれ、アーマードライダーの抗争があればすぐに駆けつけてそれを仲裁する、優しい男だった。貴族の子という身分を隠し地下世界でアーマードライダーの監視をしていた影正はサイモンと出会い、触れ合う中で希望を見出していく。絶対君主の父に逆らってまで彼を逃がそうとしたことを思えば、影正にとってのサイモンは光実にとっての紘汰だったのだろう。

 しかし、非道な父の思惑は影正から希望を奪い去ってしまう。戦極ドライバーの度重なる使用により、インベスと化したサイモン。影正はそのドライバーを地下世界に流した張本人であり、間接的にはサイモンを殺したということでもある。影正の絶望は己を焼き、燻る怒りは呉島貴虎へと向けられる。彼の貴虎への憎悪は兄への仇討ちだけでなく、かつて自分が犯した罪への贖罪の意識が含まれているものだった。そ、そういう話だったのか……!!

 父を恨み、世界を恨み、自分さえも呪った影正。そんな彼が貴虎と出会い言葉を交わす中で、兄を切り捨て生き延びた非情な人間というイメージが崩れ去ってゆく。と同時に、死んだと思っていた兄・雅仁が怪物として蘇り、躊躇うこと無く銃で自分を撃ち抜いた。信じてきたもの全てに裏切られ、オーバーロードとなった兄の刃によって倒れる影正。彼が貴虎にドライバーを託したのは、罪滅ぼしだったのだ。子どもたちを救えなかったあの日から続く罪の意識から先に逃れる、せめてもの償い。

 そして最大のサプライズ。死んだと思われていた影正は、小説版のみの後日談で一命を取り留めたことが明かされる。さっきの舞台版の感想で死んだ扱いで感想書いちゃった思わず声が出るほど驚いた彼の生還だが、なるほど確かに影正が自分の罪を償う機会なくして終わるのは『鎧武』らしくない。彼にもまだ、「変身」のチャンスが残されているのだ。国を治める鎮宮家が没落した今、この国は子どもたちの力で復興していくしかない。それを支える「大人」が必要だ。

 影正の罪も決して軽いものではないし、あの場で死んだほうが楽だったかもしれない。それでも、アイムは犠牲を払って前に進もうとしており、貴虎もまだ変わろうとしながら生きている。そして、影正には一緒に歩む仲間がいる。一人で世界を救おうとして裏切られ、鎧武の手によって再生した呉島貴虎。彼の意思を受け継ぐ者こそ、影正なのだ。

 Vシネマ、小説で描かれてきた通り、鎧武の後日談とは「継承」の物語だとまとめてきたが、影正もその一人だった、ということになる。呉島貴虎のノブレス・オブリージュを影正が受け継ぎ、トルキアの国は変わっていくだろう。貴虎がかつての紘汰のように誰かに希望を鼓舞する役目を果たせたことは、彼自身が「変身」を遂げた何よりの証明だろう。

 本編終了から数年経って、こんな良質なフィナーレが何度も世に出される『鎧武』、ファン冥利に尽きると言うか、感無量である。この舞台は、小説版とセットで完結すると言っても過言ではない。2023年にこんなこと言うのもおこがましいが、この舞台と小説を通らずして「あなたの鎧武は終わってませんよ」と今後は声高に叫ぶようにしたい。ご馳走様でした。

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