第1413回 古代・中世・近世と揃って国指定

1、超特急で街歩き

研修で埼玉県川越市に行ってきました。

と言っても古墳時代から近現代までかなりの駆け足で回ってきたので、ここでもざっくり紹介したいと思います。


2、古墳と館跡と城下町

まずは今年の3月に国指定史跡となったばかりの山王塚古墳。


わかりづらいですが、鳥居の先から上円部

発掘調査でちゃんと形が確認されたものでは全国6例目という「上円下方墳」。

周溝も含めた大きさは90mということで、この形のものでは国内最大級とのこと。

発掘調査で判明したのは、関東ローム層を活かして版築という工法で作られていること。

現地での説明では板碑に使うような板状の緑泥片岩を石室の入り口に使っていることや

まず穴をぼこぼこ掘って上円部を作って下方部は平らにならしながら作っていることなどが興味深いものでした。

続いては平安から鎌倉時代、地域の有力豪族の居館跡である河越館跡。河越氏は源義経の正室が出た家としても知られています。


堀跡や井戸跡が表示されています

実は良好に残る土塁は後世(南北朝から室町?)のもので、当初の館の中心部分はいま小学校が立っている部分ではないか、とか


公有地化した外側?に土塁

今後の整備活用や維持管理する上での課題は多いように感じました。

川越の中心はやがて移り、15世紀中ごろになると太田道灌らが新たに川越城を築いた際に尾根を削り、谷を埋めて現在の城下町を作った、とのこと。

江戸時代には「知恵伊豆」で名高い、松平信綱が城を拡張しましたが

江戸城に天守があるので関東の城は御殿のみ

という説明でした。

藩主は二の丸で執政し、本丸は御成用だったとか。

大火で焼失した本丸御殿を嘉永二年(1848)年に再建したものが現存しているので、東日本で唯一のこる本丸御殿として価値が高いようです。

西日本で高知城だけとか(未確認)。

その後明治時代以降変遷を経て、埼玉県長は浦和に行ってしまったのですが、県庁所在地にならなかったから古い町並みも残ったのではないか、とは地元の人の言。

そして川越といえば伝統的建造物群保存地区。

通称伝建地区は道路拡幅の計画を止めるために必要だったというからわからないものです。

古くは大火の多かった江戸時代に、耐火性能のために木部を土で覆って、店も蔵造りにした、ということ。

国の重要文化財に指定されている江戸時代の蔵造りの町家から、明治大正昭和のそれぞれの雰囲気を残す建物が混在しており、我が国の都市建築の変遷を追うことが出来る、という点で貴重だそうです。

やっぱり解釈、というか価値づけの妙ですよね。

実際訪れてみると大型バスが通るすぐ脇を小学生の社会科見学の団体があってハラハラします。


よく見るとスタバ

3、住んでみたいまち

いかがだったでしょうか。

超特急でご紹介しましたが、通してみると

いま国の指定を受けるほどの価値が高いものたちが残ったのは

偶然の部分が多いという印象。

決してその地で守ってきた人たちの営みを軽視するわけではありません。

様々な偶然が重なって奇跡のように残った素敵な空間をどう活かしていくかは現代に生きるものたちに委ねられている、ということを意識しないといけないですね、ということ。

それにしてもいい街です。

三日間滞在してみただけでいうのもなんですが

住んでみたいと思います。

旅するたびにそう思えるのは逆に我が国が豊かだということなのかもしれませんね。

本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。


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