第499回 宮城県大和町散策 後編
1、一門クラスのお墓を調べる
昨日に引き続き、宮城県大和町(たいわちょう)の史跡をご紹介します。
前回の記事はこちら
ご紹介するのは宮床伊達家の霊廟がある覚照寺。
というのもわが町には伊達家の菩提寺である瑞巌寺の他にも
政宗正室である田村氏愛姫の陽徳院、政宗長女五郎八姫の天麟院、嫡孫でありながら早世したため藩主になれなかった光宗の円通院と霊廟が多く立地しています。
比較研究のため県内各地の霊廟を見てみなくては、と思っていたところでした。
そして最初にお断りしておきますが、ここではほぼガイド役で説明していましたので、全然写真撮れませんでした…
2、宮床伊達家とは
まず前提として長くなりますが宮床伊達家について理解してもらうために
伊達家の「家格」をご説明しますと
大きくは
門閥と呼ばれる一門、一家、準一家、一族、宿老、着座、太刀上、召出と
平士・組士・卒に分かれます。
着座、太刀上、召出は正月の儀式で受ける待遇で区分された名称ですし、
召出と平士を合わせて番士と呼ばれる勤務体系に組み込まれているなど
すっきり説明はしづらいですが
今回は深入りせずに、話題となる一門にだけ触れることにします。
このクラスはもともと独立した大名だった家や、重要な伊達家の分家が組み込まれています。
といっても前者も縁戚関係が深いので広義で言えば親族ですね。
最終的には11家が確認でき、その中でも明確な序列があったとされています。
序列第一席 石川家
伊達政宗の叔父にあたる石川昭光を初代とし、角田要害主として一万石を超える所領を有していました。もともと石川氏は福島県の石川郡を領する独立大名でした。
第二席 亘理伊達家
政宗の従兄弟にあたる伊達成実を初代とし、亘理要害主として2万石を超える所領を有しています。成実の父、実元は越後上杉氏の養子にという話があり、それをきっかけに伊達稙宗と晴宗の確執を生み、天文の乱が起こったという出自や、決して後退しない毛虫を象った前立の兜を愛用していたなど話題に事欠かきません。
第三席 水沢伊達家
政宗の叔父にあたる留守政景を初代とし、一関で二万石を有していました。留守氏も本来は陸奥国の留守職を出自とする独立大名でしたが、度重なる伊達家からの養子縁組によって家臣に組み込まれていきました。
第四席 涌谷伊達家
伊達政宗の又従兄弟にあたる亘理定宗を初代とし、涌谷要害主として二万石を超える所領を有しました。亘理氏も元は千葉氏の流れをくむ独立大名でしたが、政宗の曽祖父、伊達稙宗の子、元宗が養子に入ってからは伊達家の旗下に入ることになりました。
第五席 登米伊達家
政宗の父、輝宗の従兄弟にあたる白石宗直を初代とし。登米要害主として二万石を有していました。白石氏も古くから刈田・伊具郡を領する領主でしたが、鎌倉時代から伊達家の養子が跡を継ぐなど密接な関係にありました。
第六席 岩谷堂伊達氏
伊達政宗の従兄弟の子である岩城政隆を初代とし、現在の岩手県江刺郡の岩谷堂要害主として5000石を有していました。岩城氏は海道平氏の嫡流ともいわれる名家でしたが、伊達氏と佐竹氏の狭間で家が分かれてしまいました。佐竹と関係が深い家は出羽亀田藩主として幕末まで続きました。
第七席 宮床伊達家
伊達政宗の孫にあたる宗房を初代とし、8000石を有しました。宗房は一時期伊達家の庶流、田手氏を名乗っていたこともありました。また宗房の息子が5代藩主の吉村となるなど本家と密接な関係にあったようです。
第八席 岩出山伊達家
伊達政宗の四男である宗泰を初代とし、岩出山要害主として一万石を超える所領を有しました。二代宗敏は三代藩主綱宗の隠居願(いわゆる伊達騒動)に筆頭で署名するなど一門の重鎮として目されていたことがわかります。
第九席 川崎伊達家
伊達政宗のひ孫にあたる伊達村和を初代とし、桃生郡中津山を中心に一時期は三万石を有しましたが、不祥事を起こして改易されます。息子の村詮が柴田郡川崎要害主として2000石を拝領し、幕末まで続きます。
第十席 白河家
もともとは白河地方を支配する戦国大名でしたが、豊臣秀吉の奥州仕置によって改易されてしまいます。後に白河義綱が伊達政宗に召し抱えられ1000石を与えられるなど厚遇されます。
第十一席 三沢家
もとは出雲国(現在の島根県)の出身でしたが、毛利家から出奔した三沢為基が伊達家に仕えたと言われています。為基の孫にあたる初子が3代藩主綱宗の側室となり、4代藩主綱村ら男子を産んだことから一門扱いとされました。
3、論点の紹介
以上のように宮床伊達家は家格的にも上位ですし、藩主吉村を輩出した家柄ですので
相当豪華な霊廟があったと思われますが、現在では建物は失われており、礎石を残すばかりです。
大和町史より抜粋
二代目以降の領主の墓石も大きいと言えば大きいですが、おそらく妻子であろう女性名の戒名のものも同じ大きさと装飾なのが特徴的です。
村興以降の当主が霊廟建築を手がけなかったのも時代の文化として捉えるべきか、
ただ単に費用的な問題なのか。
上記図のように墓石の配置についても丁寧に調べていけば色々わかりそうですね。
碑文をしっかりと把握して人物を特定するとともに
他の一門クラスの廟所と比較検討していくと面白そうじゃないですかね。
いずれ腰を据えて研究したいテーマです。
それにしてもここまでオープンに入らせてくれるのも珍しいかもしれませんね。
ご子孫の方もいらっしゃるでしょうに。
さて、本日も最後まで読んでいただきありがとうございます。
前置きが長くなって本題が締まらなくなるのは悪い癖ですね。
より簡潔に歴史の魅力をお伝えできるような記事を心がけていきたいと思います。
ぜひ貴方の感想もお寄せいただけると嬉しいです。
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