第1462回 平泉を巡る研究最前線

1、公開講座記録

昨日東北学院大学で開催された公開講座、「陸奥国 古代から中世への展開─研究の最前線」に参加してきたのでその感想を紹介します。

これは毎年東北学院大学文学部歴史学科が主催で、今回で25回目ということでした。

会場を見渡すと、学生から年配の方まで幅広い年代の方が受講されていましたね。

2、古代から中世へ

3人の先生が講演され、その演目は以下の通りです。

①「考古学からみた北東北の古代中世」

八重樫忠郎 (平泉世界遺産ガイダンスセンター館長)         

②「平安時代の東北社会をどう見るか-古代史の視点から」

永田英明 (東北学院大学文学部歴史学科教授)

③「平泉藤原氏の主従制」

七海 雅人 (東北学院大学文学部歴史学科教授)

その中でも考古学をテーマにした八重樫さんの講演について詳しくご紹介していきます。

八重樫さんは岩手県平泉町の文化財専門職員として長らく発掘調査をご担当されてきた方で、現在は世界遺産ガイダンスセンターの館長という肩書きでした。

最初に話題に出されたのは長者ヶ原廃寺跡。

平泉から衣川を遡って隣町の奥州市に入ったところにある遺跡です。

現在整備計画が進んでいる、ということですが今回のお話を聞いて遺跡の重要性を改めて認識しました。

というのもここは11世紀前半に作られた寺院跡で、平泉に奥州藤原氏が中尊寺を築くより前、古代と中世のまさに狭間に位置するのです。

少し歪んだ方形の区画を持ち、街道から見える側は築地塀をめぐらし、そうでないところは簡易な土塁で境界を示します。

なぜか門が4面ではなく、東側を除いた3方向ににしかないのも特徴で

このように非対称的なところは一般に中世的、と認識されることになります。

というのは古代は律令という唐の国の制度を輸入してきて

「かくあるべき」という理想を重んじた時代だったと考えられます。

街道もまっすぐで幅広。

中世になるともっと実用的で簡易的、みたいなざっくりとした印象があります。

とはいえ八重樫さんは古代の区画が正方形だ、というのも再検証が必要ではないか、という疑問もちらっと口にされていました。

建前と本音、理想と実状。

そして何よりこの遺跡から中尊寺方向(関山丘陵)を見ると、

山の頂上付近がそのこの遺跡の中軸線上に見える、というのです。

頂上付近にあった、なにか何か宗教的な施設を意識しているのではないか、という指摘。

コロナ禍中で遠出できない時間にこの丘陵を改めて歩いて回ったという八重樫氏。

丘陵の他の場所には経塚が散見されるのに、頂上には経塚がなかったのだろうか、という疑問を持ったとのこと。

経塚が流行るのは12世紀から。

長者ヶ原廃寺跡の遺跡の年代はそれより前。

12世紀以前に頂上付近には別の施設があったから経塚を作ることができなかったのではないか、という推論を展開します。

一方で同じ奥州市の瀬谷子須恵器窯跡も過去の調査では大半が消滅してしまったとされてきたが、実はまだ数十基単位で残存していたことを確かめたと言います。

また青森県の五所川原須恵器窯の製品と比較し

これまで胆沢城というヤマト政権側の支配者層が好んでいたものと考えられていたこの須恵器が、

エミシと呼ばれる人たち向けのもので、やがて需要に応じて北進していったものだ、という考えを明らかにしました。

こちらも11世紀初頭以降に登場した流通を担う商人たちの力を想定しており、やはり中世への転換点はこのあたりにありそうです。

3、一方そのころ

いかがだったでしょうか。

私が住む宮城県は古代の中心は多賀城で、陸奥国分寺・尼寺などにも瓦や須恵器が供給されていたことから、いくつか古代の窯跡が見つかっています。

一方で、11世紀以前に多賀城の求心力は低下して、他の遺跡も状況が分かりづらくなっています。

奥州藤原氏が力をもってきた12世紀以降になると、集落跡も見つかるようになりますし、渥美半島で焼かれた陶器を真似して地元で窯を作るようになります。

11世紀が空白なんですよね。

ちょうど中世への変換点がわからないんです。

もどかしいところですが、逆にこの辺りを探るのが自分の仕事の一つだ!と思えるくらいだといいのかもしれませんね。

本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。



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