第395回 博物館探訪 第5弾 東北歴史博物館③

1、仙台藩四大画家紹介シリーズ①

またまた東北歴史博物館の企画展示の話から導入を始めたいと思います。
「仙台の近世絵画-梅関と江稼圃-」というテーマ展示。


仙台四大画家の一人、菅井梅関(すがいばいかん)とその師にあたる江稼圃(こうかほ)のストーリーが紹介されていました。

2、刻苦勉励で文人画家を目指す


梅関は仙台の商家に生まれるも、家督を弟に譲って画の修行に打ち込んだといいます。


菅井という姓も、菅原道真の神像を描いて励みにしたからということ。


仙台にあっては瑞鳳寺の古梁紹岷(こりょうしょうみん)に師事します。


古梁は武蔵八王子出身で、江戸東禅寺で修行、後に妙心寺住持を務めます。また南山と号しています。個人的には南山古梁という方がしっくりきます。


瑞鳳寺は伊達政宗の霊廟(お墓)である瑞鳳殿の香華院(お墓に香や花を供える役割の寺院)として建立されたものです。

梅関の初期の作品として群馬県渋川市の雙林寺本堂の巨大涅槃図が遺っています。


その後、江戸に出て谷文晁(たにぶんちょう)に師事しますが、北宗画的なところになじめず、東東洋(あずまとうよう)を頼って京都に向かったとされています。


ここで北宗画と南宗画の違いを私の理解している範囲で軽く説明しますと

北宗画は「鉤斫之法」という力強い描線を特徴とした山水画が代表的で、日本では雪舟から狩野派に受け継がれて完成されたものとされています。

一方で南宗画は「気韻生動」、つまり生き生きとした情緒や風格が絵に漲っていることをいうそうです。それは画家の精神の充実、高い人格から生まれてくるという考え方に基づいているというものですので、狩野派のような職業画家的でないことや、写実に偏らない、装飾的でないことが特徴ともされています。

うーんわかるようなわからないような。

もっと言えば狩野派は職人集団が親方の指導力の下、工房としての作品を作るのに対し、

南宗画は文人、教養のある人が精神性を表現するために描くといったところでしょうか。
 
辞書的な理解だと谷文晁も南宗画の代表的な画家なんですが・・・
 
それはさておき、京都でも様々な画風から学んで研鑽を積みますが、ある扇に描かれた絵をみて衝撃を受け、その作者に会うため今度は長崎に向かいます。

3、師との出会いと苦難の後半生


それが清国の画家、江稼圃でした。

書画の技法のみならず、文人として身に着けるべき漢詩などの知識教養まで教授されたとされています。

幕末の尊王攘夷運動に影響を及ぼした『日本外史』の著者、頼山陽と交流したのもこの時期とされています。


刺激に満ち溢れた学びの時期も長くは続かず、郷里から母が亡くなり、家業を任せていた弟が失明したとの報を受けて帰国することになります。


別れ際、師の稼圃は梅関に墨梅図を描かせ、梅道人と呼ばれた呉鎮(ごちん)という元代の画家になぞらえたといいます。感激した梅関が「東斎」から号を改めたのはこの時であると伝わっています。


仙台藩に戻った梅関は涌谷領主の伊達桂園に仕え、師の古梁や盟友の東東洋などの支援を受け家族を養いながら画作に取り組むも、生活苦からか自ら命を絶ってしまいます。

文人を目指した画家の最期としてはなんとも切なくなりますね。

今回東北歴史博物館で展示されている『千岳万峰図』『墨梅図』などに加えて、

宮城県図書館には南山古梁の文に菅井梅関が絵を記した『塩松紀行』、

瑞巌寺には『雪中夜梅図』『猛虎図』、

仙台市博物館には『三界居録』『水亭午翠図』『江頭幽趣図』『旧城朝鮮古梅之図』

など宮城県内に多数の作品が残されています。

最初に紹介した東北歴史博物館でのテーマ展示は6月30日まで

菅井梅関の作品も展示されている瑞巌寺宝物館の企画展「松島・観瀾亭~仙台のお殿様が愛した風景~」は6月25日に一部展示替えが予定されています。

お近くにお越しの際はぜひご覧になってみてください。

芸術を芸術として鑑賞するセンスはなくとも

作品や作家の物語を伝えることはできます。

今後も臆せずこの種の話も発信してきたいと思います。

ぜひコメントで感想などお寄せください。

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