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第512回 長曾我部vs真田

1、西軍の雄が東北の地で相見える

先日こんなイベントに行ってきました。

令和元年度蔵王町仙台真田歴史セミナー
真田家と長曾我部家

蔵王町は仙台真田氏の領地があった所という縁で
真田氏に関する歴史イベントを継続的に行っていたようです。

2、子孫が語る長曾我部家の歴史

初めに長曾我部元親の五男の子孫だと言う維親氏による長曾我部氏の歴史解説。

戦国武将の子孫と言うと、

子孫の私だからわかる歴史の真実!

みたいなトンデモに走りがちですが、

維親さんは抑制的で、かつしっかりと歴史学に対する敬意を払いつつ、自分の感覚も大切にされているのが伝わってくるお話でした。

左は司会の油川さゆりさん、中央が長曾我部維親さん、右は真田徹さん。

服装は奇抜で、実際の年齢よりだいぶお若く見えるという驚きはありましたが。

講演自体もだいぶ整理されてお家の歴史を語られていましたが、

さらにそれを短くまとめますと、

四国は土佐の国人衆の中でも最弱だった家を

政略結婚や養子縁組を駆使して国親、元親二代で土佐一国の主に上り詰めたと言うこと。

この辺りは毛利元就を連想させますね。

実際国親は1504年生まれ、毛利元就は1497年生まれですから世代的には近いですね。

そして長曾我部家躍進の裏には明智光秀の側近であった美濃の斎藤氏との縁戚関係を通じた
織田信長との同盟関係があったことも紹介。

一方で織田が阿波を本拠とする三好氏を庇護した事で関係が悪化し、本能寺の変直前には極度の緊張状態に。

本能寺の変後の混乱に乗じて四国統一を成し遂げますが、

一方で明智を通じて得られていた中央の情報が入手できなくなったことを
維親さんが重要視されていたのは驚きでした。

結局豊臣家に従い、九州征伐に駆り出され、元親は嫡子の信親を失います。

そこからは悲劇の連鎖。

身内が次々と世を去り、元親も関ヶ原の戦いの前に、4男の盛親を残して逝ってしまいます。

大坂夏の陣で奮戦した盛親もついには捕らえられ、死を迎えます。

維親さんの祖先である元親五男もこの時連座して死罪となったとされていますが、

実は名を変えて江戸時代を乗り越えた一族がそれなりにいたようです。

3、伊達は人材コレクター?

そしてようやく伊達との関わりに触れる事ができます。

長曾我部元親の娘、阿古姫は家臣であった佐竹親直に嫁ぎますが、
彼は大坂の陣で戦死。

姫と子は伊達家に保護されたと伝えられています。
こちらは政宗から阿古姫に宛てた書状が残っています。
遺児は仙台藩士柴田外記として伊達騒動に大きく絡んでくるのですが、
それはまた別の話。

そして真田信繁も子どもたちを保護したのも伊達家の家臣、片倉小十郎重長。
ここに仙台真田氏が生まれます。

長曾我部と真田、そして伊達。

遠く離れた地に生きた武将たちですが、

実は豊臣政権下で伏見に与えられた屋敷地は近接していたとのこと。

記録には残っていないことながらご近所同士よく顔を合わせて親しく交流していたのかもしれませんね。

400年の時を越えてこのミヤギの地で子孫たちが笑い合う未来が来るとは
感慨深いですね。

本日も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

#歴史 #エッセイ #毎日更新 #長曾我部 #伊達 #真田

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