第526回 中世人よりもおそれを知らない現代人

1、苦手な方はご遠慮ください

今日はお墓の話をします。

あんまり得意じゃない方はここで回れ右をされた方がいいかと思います。

というのは少し前から鳥辺野の発掘調査成果が話題になっていました。

先月の研修会で専門家の話を聞いたこともあり、

いずれ話題にしようと思いつつ、ようやくまとめることができました。

2、発掘以前に想定されていた葬送の場

まず鳥辺野とは何か。

京都三大風葬地とも呼ばれるそこは、

平安京の時代から庶民の亡骸がもたらされる場所として知られていました。

火葬をするのにも燃料が必要ですし、

土葬をするのだって労力がかかります。土地代だってかかります。

だから庶民は風葬といって亡骸を風化に任せる、

もしくは鳥や野良犬が啄むに任せるといった葬送が一般的だったと考えられています。

画像1

そこでよく取り上げられるのがこの『餓鬼草子』の一コマ。

東京国立博物館所蔵の国宝で、平安時代末期から鎌倉時代における

リアルな景色を今に伝える資料となっています。

元興寺文化財研究所の狭川真一さんの講義でうかがったのですが、

亡骸が朽ち果てて白骨化していく様も、解剖学的に見てもリアルだとのこと。

おそらく鳥辺野でもこのように風化に任せた亡骸もありつつ、

土まんじゅうのようなお墓を作ってもらえたり、

木製卒塔婆や石塔などが塚の上に建てられ、懇ろに供養されたお墓もあったのでしょう。

3、調査成果が明らかにしたこと

そして今回確認されたのは

溝で方形に区画されたお墓や木製の棺桶など。

その配置は計画的に行われていることが伺え、

『徒然草』や『源氏物語』に描かれる墓地を彷彿とさせます。

元記事には発掘調査を担当した株式会社文化財サービスさんが作成した

想像図も掲載されているので、ぜひご覧ください。

このような貴族墓と庶民の風葬地は住み分けがなされていたのでしょうか。

または餓鬼草子に描かれているように渾然としていたのでしょうか。

後者だとすると、そのような空間に貴族が墓参をするような場面があったと想定しなくてはいけませんね。

そう、余談ですが、この鳥辺野はのちに平氏一門の屋敷地となっていたのです。

葬送の地として知られるところに屋敷地を構えるとはどんな心境だったのでしょうね。

後進勢力として選べる適地が他になかったのでしょうか。

兵の家として死を恐れないことを矜持としていたのでしょうか。

そのあたりを考えるヒントも実は発掘調査で見つかったようです。

平氏時代の屋敷の堀とみられる遺構が、なぜか唐突に石垣で塞がれているのです。

実はこの石垣の先に、先ほど紹介した区画溝で囲まれたお墓があるのです。

つまり平氏時代の屋敷を造成する際には、一つ前の世代のお墓はもう埋まってしまっていて、

堀を掘っていくうちに、お墓のエリアを侵食してしまったことに気づいて

慌てて埋め戻した。しかも強固な石垣で。

というようなストーリーが想定されるのではないか、ということです。

さすがの平氏もお墓を壊してまで屋敷を作ろうとは思わなかったのでしょうか。

それに引き換え現代人は…

今回の発掘調査の原因はホテル建設…

貴方はどう思いますか?

ぜひコメントでご意見をお寄せください。

本日も最後までお付き合いくださってありがとうございました。


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