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韓国語/朝鮮語と日本語との文法的な違いについてー象は鼻が長いの意味4ー

【一生懸命なのは誰?】

 さて、皆さん。先日、ネットサーフィンをしておった際、幸運にも拝読が叶ったのですが、非常に興味深く存じたので、共有申し上げます。愛媛大学のサイトに掲載されている、塚本秀樹教授のご研究のご紹介(注1)です。

a. 先生が学生に一生懸命に本を読ませた。
b. 선생님이 학생에게 열심히 책을 읽혔다.

https://www.ehime-u.ac.jp/data_study/data_study-11502/

 日本語a文と韓国語/朝鮮語b文とは、対応した内容です。両言語のネイティブスピーカーに尋ねてみると、日本語のa文の場合、「一生懸命に何かをした」のは、学生である可能性も、先生である可能性も、両方あるとの回答ですが、韓国語/朝鮮語のb文の場合、「一生懸命に何かをした」のは先生であって、学生である可能性はゼロだ、との回答が得られたとのことです。そして、このような違いが起こる要因として、塚本先生は、以下のように述べていらっしゃいます。 

「語と文の成り立ちの違い」という根本的な要因
  日本語――語と文が重なり合わさった性質のものが存在する仕組みになっている。
  朝鮮語――語なら語、文なら文といったように、基本的には語と文の地位を区別する仕組みになっている。

https://www.ehime-u.ac.jp/data_study/data_study-11502/

 因みに、この文に対応した中国語、

簡体字:老师让学生努力看书了。
正体字:老師讓學生努力看書了。
新字体:老師譲学生努力看書了。

は、「学生が一生懸命そうした」という意味に百%なり、先生が一生懸命何かをしたという意味にはならないそうです(一生懸命に何かをしたのは先生だ、という可能性はゼロということ、ネイティブスピーカーの方に確認する限り)。つまり、韓国語/朝鮮語とは真逆の意味になる、ということです。さて、

日本語――語と文が重なり合わさった性質のものが存在する仕組みになっている。
朝鮮語――語なら語、文なら文といったように、基本的には語と文の地位を区別する仕組みになっている。

https://www.ehime-u.ac.jp/data_study/data_study-11502/

という、こちらのお考えについてですが、大変僭越ながら、理解が凄く難しいようにも、「学生が何かを一生懸命した可能性」が無いことと、その仕組みとにどのような関連があるのか、理解が難しいようにも思われます。そこで、私が正しく理解できているかは措くとして、また、それどころかとんでもない勘違いをしているかもしれませんし、大変無謀な試みとは承知しておりますが、敢えて何とか私なりにかみ砕いて解釈し、愚見を申し上げ、皆様にご指摘が頂ければ、と存じます。

【形容詞なのになぜ連体修飾を受ける?】

 ところで、やや外れるようですが、私、韓国語/朝鮮語を勉強していく中で、物凄く不思議に感じたことがございまして、それは、「形容詞のはずなのに、それに係る用言が副詞形や連用形にならず、なぜか連体形になるケースがある」というものです。リンク(注2)をご覧ください。

한번 해 보실 만한 것 같습니다.
一度お試しになる価値はあると思います。

https://www.penguin99.com/04_grammar/bunkei/l_manhada.html#:~:text=%EB%A7%8C%ED%95%98%EB%8B%A4%20%E3%82%92%20%EB%A7%8C%20%E3%81%A8%20%ED%95%98%EB%8B%A4,%EC%8B%9C%2D%E3%81%AB%E3%82%82%E3%81%A4%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

 만하다というのは、(それだけ単独で使われることは無いはずの)形容詞なのですが(そのはずですが)、例えば動詞がこれに係る際には、連用形や副詞形でなく、なぜか連体形にしなければなりません。만하다は、複合語、複合形容詞で、만+하다という構造のはずで、恐らくですが、その만に名詞性のようなものがあり、そこに対して、一種の接続のようなことをするので、連体形になる、ということなのではないか、と、一応の想像はできます。
 ですが、日本語母語話者の語感としては、複合形容詞は、当然、形容詞扱いしないとおかしいように感じられるのです。例えば、「欲深い」を複合形容詞と見た場合、それに係る修飾語は、「非常に」とか「物凄く」とかにならないとおかしいのであって、「×非常な欲深い」とか「×物凄い欲深い」とかは、係り受けがおかしい、という認識になります。なお、「物凄い」を連用修飾語にする用法は、あくまで口語的な用法なのであって、表現として敢えて選択するのは構いませんが(一種の、感動詞、間投詞、独立語、挿入語句とも捉えられるように思われる)、その方が正しいとかそういうことにはならないはずです。私は、この事(形容詞なのになぜ連体修飾を受けるのか?)が長いことずっと不思議だったのですが、塚本先生のご研究の、

日本語――語と文が重なり合わさった性質のものが存在する仕組みになっている。
朝鮮語――語なら語、文なら文といったように、基本的には語と文の地位を区別する仕組みになっている。

https://www.ehime-u.ac.jp/data_study/data_study-11502/

というご説明を拝読して、少しだけ(勝手にですが)得心が行ったような気が致しました。
 つまり、만하다のような複合形容詞であったとしても、(만の品詞がそもそも何なのかの問題は措くにせよ)一定の名詞性があると思われる만は、하다という語に対して、謂わば語としての品詞の独立性みたいなものを一定以上保っている、ということ、複合語なんだけど、まだ語(만)と語(하다)とがその本来の在り方を、一定以上維持しており、それに係る他の語句や節は、その複合語全体(만하다)の品詞に対してでなく、만という語自体に係っていく、という、そういう認識で取り敢えず(?)大丈夫なんじゃないかと存じた次第です。これは、日本語とは全く違う図式のように思われ、非常に興味深いところです。

【解釈:語と語とにどのような文法的関係が見出せるか?】

 さて、最初の、
先生が学生に一生懸命に本を読ませた。
선생님이 학생에게 열심히 책을 읽혔다。
 の解釈に戻ります。

対応:先生が学生に一生懸命に本を読ませた。
専用:선생님이 학생에게 열심히 책을 읽혔다.
混用:先生님이 學生에게 熱心히 冊을 읽혔다.
併用:선생(先生)님이 학생(學生)에게 열심(熱心)히 책(冊)을 읽혔다.
訓読:先生님이 學生에게 熱心히 冊을 讀혔다. ※讀は訓読。
ルビ:先生선생님이 學生학생에게 熱心열심혔다. ※讀は訓読。

 便宜上、対応した日本語でご説明します。韓国語/朝鮮語の場合、「先生が(선생님이)」「学生に(학생에게)」「一生懸命に(열심히)」「本を(책을)」の、国語文法でいう所の文節の部分は、全て、「読ませた(읽혔다)」という語(韓国語/朝鮮語の場合、それは一種の複合動詞)に係っています。そんな係り受けは日本語だってそうだろうという声が聞こえてきそうですが、仰る通りでして、少なくともこの例文の場合に関しては、係り受けという文法構造は、両言語で基本的に同じだ、と見ることができます。そのように文法構造が同じはずなのに、両言語で「一生懸命に或ることをしたのが誰なのか」ということに相違がなぜか出て来るわけです。
 「先生が(선생님이)」「学生に(학생에게)」「一生懸命に(열심히)」「本を(책을)」の語(実際は助詞句(注3)でもあるが)は、あくまで語として、文内の他の語に向き合っており、「学生に(학생에게)」「一生懸命に(열심히)」という形が述語に係り得る形であるかどうかという問題以前に、語として一定以上の独立性みたいなものを保っているので、文内の他の語に対しては、語として、他の語に対する修飾語や、述語に(※意味的にも)係る語にしかなり得ないようなのです(同格の問題は措きます)。「読ませた(읽혔다)」という述語は、ここでは先生がやる行為を表しており、「一生懸命に(열심히)」という副詞語が、文内のその他の語を修飾しているのでなく、その述語に係っている以上、当然、先生が一生懸命(に)そうする、という解釈以外は、韓国語/朝鮮語では、あり得ないのだろう、と、普通に推察可能だと言えます(同格の問題は措きます)。
 一方、日本語では、一つの文の中での語と語との関係は、(述語に係っている語及び述語という関係でない場合にも)なぜか文や節としての理解を許容する(場合がある)のです。「学生に一生懸命に」と、この部分だけ切り取ってみても、そこに「学生が一生懸命(だ)」という解釈の可能性が出て来るわけです。ですが、そういうことは、韓国語/朝鮮語ではあり得ない、ということのようです。このような、言語の事実を指して、

日本語――語と文が重なり合わさった性質のものが存在する仕組みになっている。
朝鮮語――語なら語、文なら文といったように、基本的には語と文の地位を区別する仕組みになっている。

https://www.ehime-u.ac.jp/data_study/data_study-11502/

のように、塚本先生は仰っていらっしゃるのではないか、と、現在のところ、理解しておる次第です。

【係り受け及び語と語との関係の図示】

 前段で申した、係り受けと、語と語との関係について、視覚的に分かりやすくするため図示してみます。図示の方法は、三上章先生のもの(『象は鼻が長い』くろしお出版1960p91)を使わせていただきます。

   先生が学生に一生懸命に本を読ませた。
先生님이 学生에게 熱心히 冊을 読혔다.
선생님이 학생에게 열심히 책을 읽혔다.

 (三上章先生の)図示は、縦書きになります。日本語が読める方に取って、文法的な図式が理解しやすいよう、敢えて、漢字は新字体にし、また、「読」と訓読しております。なお、韓国語/朝鮮語では「本」は「冊」という漢字語になります。「先生」に後接する「님(nim)」は「様」のような接尾語で敬称です。日本語の場合、職位名はそのまま敬称になりますが、韓国語/朝鮮語の場合、職位名だけでは駄目でそれに敬称の接尾語を付けます。
 ここでは青色を可の意味、赤を不可の意味で使用しております。「読ませた」やそれに対応する韓国語/朝鮮語「읽혔다/読혔다」に向かう縦や斜めの青線が、係り受けの図示で、これがいわば文です。日本語の場合、そのような文内の係り受けだけでなく、学生、一生懸命という、語と語との間に、線(ここでは青の横線)が成立し得る(場合がある)のです。それは、具体的には「学生が一生懸命だ」という文と同様の関係が、語と語との間に、なぜか成立し得る(場合がある)ということです。
 なお、ここで、(直線や斜めでなく)横の青線で図示し(ようとし)たものは、「語と文が重なり合わさった性質のもの」と塚本先生が仰るものであり(そのはずです)、それは、何らかの「『謎の』といってもよいような文法的関係」であるものと存じます。それには、先達イェスペルセンの仰るネクサスに似ている部分があるようにも思われますが、直感的な印象に過ぎません。
 対して、韓国語/朝鮮語の場合、赤の横線で示したように、それは成立し得ないのです。

【発展:象は鼻が長いにおける語と語との関係】

 日本語の場合、「象は鼻、キリンは首、蛇は胴、ハクビシンは尾が長い」のような言い方が普通にできます。しかし、これを直訳したような中国語、

簡体字:大象、鼻子、长颈鹿、脖子、蛇、躯干、果子狸、尾巴长。
正体字:大象、鼻子、長頸鹿、脖子、蛇、軀幹、果子狸、尾巴長。
新字体:大象、鼻子、長頚鹿、脖子、蛇、躯幹、果子狸、尾巴長。

を、(こちらの投稿にもご登場いただいた)ネイティブスピーカーで中国の中学の国語の先生の資格を持つ方に聞いていただいたら、「意味は分からないこと無いが、物凄く変だ。言語が未発達の小さな子供とかならそういう言い方をすることもあるかもしれないとも思われるが、普通はそういう言い方は絶対にしない」というご指摘が頂けました。では、中国語では普通どういう風に言うのでしょうか、と尋ねたところ、即答は難しいので考える時間が欲しい、とのことで、明くる日、以下のようなご回答が頂けました。

簡体字:大象鼻子、长颈鹿脖子、蛇躯干、果子狸尾巴都很长。
正体字:大象鼻子、長頸鹿脖子、蛇軀幹、果子狸尾巴都很長。
新字体:大象鼻子、長頚鹿脖子、蛇躯幹、果子狸尾巴都很長。

だそうです。これを直訳すると、
「象の鼻、キリンの首、蛇の胴、ハクビシンの尾(は)、全て/いずれも/皆/揃って、長い」程度になります。ここでの、象、鼻、キリン、首、蛇、胴、ハクビシン、尾という、語と語とは、連体修飾構造として理解されます。なお、日本語と異なり、中国語の場合、名詞同士の連体修飾の際、「の」に対応する助詞が必要無いこともよくあります(これは韓国語/朝鮮語でも同様です)。
 では、なぜ、中国語ではそうは言えないのか見てみましょう。先ず、現代中国語では、主語が並列しているような場合、その並列した主語をグループ化するかのような「都」(対応すると思われる日本語:全て、いずれも、皆、揃って)という、副詞とされる「語」が、原則(※文脈等により出てこないケースはあり得ると言えるが)必ず必要です。

狮子🦁老虎🐯both(/all)good
直訳:ライオン、虎、両方(とも)/共に/どちらも/いずれも、よし。
意訳:ライオン「も」虎「も」いい。

 見方を変えると、(象鼻文の問題は措くとして)中国語では、1つの述語に(並列した)複数の主語が係るのは(※そのままでは)NGで、そうなった場合(並列した場合)必ず「都」という「全て、いずれも、皆、揃って」のような意味の語を出して、それでいわばグループ化して、1つのものとして扱わないといけない文法になっている、とも言えるかもしれません。
 「象は鼻、キリンは首、蛇は胴、ハクビシンは尾が長い」を直訳したような図式の(恐らく文法的に非文の)中国語表現の場合、並列されるグループのようなものが動物の種類の側と身体の部位の側と、2つあることになりますが、その2つを1つのグループにまとめることは意味的にできないし(というよりもそもそも2つのグループのものを交互に提出して並列して1つのグループのように並列すること自体、表現としても文法としてもおかしいという理屈にもなります)、「都」を2つ出して(ここでの)そのグループ2つを示すこともここでは文法的にできません(その場合、述語が2つ無いといけない理屈になるので)。
 ですので、「象は鼻、キリンは首、蛇は胴、ハクビシンは尾が長い」を直訳したような図式の中国語表現の場合、文内の語同士で向き合うべき対象の語が見当たらなくなってしまうことになります。仮に動物の種類だけグループ化した場合、身体部位の各語が行き場を失いますし、逆もまた然りです。
 そうすると、当然、動物の種類の側と身体の部位の側とは一対で、それらは連体修飾構造としか解釈できないのです。そうでないと、(挿入語句等でない以上)語が係る対象が無くなってしまうからです。

 では、韓国語/朝鮮語ではどうでしょうか。「象は鼻、キリンは首、蛇は胴、ハクビシンは尾が長い」を直訳したような言い方、

 코끼리는 코, 기린은 목, 뱀은 몸통, 백비심은 꼬리가 길다.

 こちらが、韓国語/朝鮮語で言えるのかどうか、私には分かりませんが、言えるか言えないかだけで言えば、そういう表現が普通かどうかは措くとして、言えるのではないかと推察されます。なぜ、そう思うのかというと、中国語の「都」のような文法的な縛りが韓国語/朝鮮語には無いように思われるから、ということがあります。ただ、韓国語/朝鮮語も、中国語も、語と語とが、その本来の性質とでも呼ぶべきものを、日本語に比べると維持しているように見受けられるので、もしかしたら、韓国語/朝鮮語も、中国語に似ている部分がある、という可能性もあります。具体的には、「象は鼻が長くて、キリンは首が長い」のように、2回「長い」という語を出す方が表現として普通という可能性もあるかもしれません(し、全く違うかもしれません)。

 こちらについて、ご存じの方、ネイティブスピーカーの方に確認の取れる方がいらっしゃいましたら、是非ともご教示のほど、お願い申し上げます。

 こちらの問題について、先ほど(7/25)、ネイティブスピーカーの方から大きなヒントを頂くことが叶ったので、共有させていただきます(ご本人の許可も頂いております)。先日(7/19)、「韓国語相談所(Lineのオープンチャット)」をご開設の、ユンユン先生に、お話を伺いました。下記リンクのご投稿にて、同相談所について共有なさっていらっしゃいます。

코끼리는 코, 기린은 목, 뱀은 몸통, 백비심은 꼬리가 길다.

 こちらの表現ですが、ユンユン先生は、問題無い表現だ、とのご認識のようです。同時に「以下のようにした方が文章を読む人がより速く文章の意味が理解できると思う(余り羅列ばかりすると読む人にとって理解が難しいかもしれない)」のようにもお考えです。

코끼리는 코가 길고, 기린은 목이 길며, 뱀은 몸통이, 백비심은 꼬리가 길다.

私の作った表現と違う部分を括弧で括ります。

코끼리는 코(가 길고), 기린은 목(이 길며), 뱀은 몸통(이), 백비심은 꼬리가 길다.  

 韓国語/朝鮮語について詳しくない方にもご理解いただけるよう、直訳的な日本語を作って文法構造を見てみましょう。

象は鼻(が長く)、キリンは首(が長くて)、蛇は胴体(が)、ハクビシンは尾が長い。

 つまり、鼻他の身体部位の語を体言止めのような形にはせず助詞を付けること、また、(ここでは)最初の2つ、用言(述語)も出すこと、そうした方が理解が速い、というお考えなのです。非常に興味深いご内容だと存じます。
 日本語が母語である私には、「~は体言止め、」の形が、4つくらい並んでも全然平気です。だって、それは「春はあけぼの」の枕草子のころにはすでにあったわけで、息の長い日本語表現なのですから。ですので、ユンユン先生が仰るように「羅列ばかりしている」ようには、感じられないわけです。
 ただ、羅列(のようなことを)すると、何が困り得るのかというと、一つ考えられるのは、以下のようなことです。韓国語/朝鮮語も、中国語同様、名詞を名詞に連体修飾させる際「の」に対応する助詞が必要無いことがあります。ということは、当然体言止めの名詞の後に名詞が来ると、聞き手は「連体修飾なのかもしれない」との判断や判断留保を迫られることになります。そうすると、当然理解はしにくくなるわけです。すると、当然、助詞や用言(述語)を入れるというのは、その判断留保のようなものを避け、それによって理解を促進させてくれることになります。
 また、もう1つ考えられることがあります。日本語の「が」に対応するとされる、韓国語/朝鮮語の助詞「이/가」ですが、こちらは日本語の「が」にだけ対応するのでなく、「~になる」という際の「に」にも、「で(は)ない」という際の「で(は)」にも対応します。ですので、「象は鼻が、キリンは首が、蛇は胴体が、ハクビシンは尾が長い」に対応する、韓国語/朝鮮語表現にした場合も、やはり、それを読んでいる人、聞いている人は、「が」に対応する助詞の(文法的)意味について判断留保のようなことをせねばならず、ゆえに、助詞だけでなく用言(述語)も出した方が当然理解は速いわけです。

 韓国語相談所を開設なさり、外国語の理解に苦しんでいる者に手を差し伸べてくださる、ユンユン先生に心より感謝を、そしてご尊敬を申し上げます。また、ユンユン先生とのご縁を繋いでくださった、note様にも、御礼申し上げます。

 では、他の事例も見てみましょう。中国語でも韓国語/朝鮮語でも、「私は父親が医者です(注4)」というのは言えず、「私の父親は医者です」式の言い方や解釈になる、ということを、以前の投稿(『象は鼻が長いの意味2』)でお話ししました。
 中国語、韓国語/朝鮮語の場合、私、父親、医者に対応する各語は、日本語に比べると、語としての単独性みたいなものを強く保っている模様です。ですので、中国語、韓国語/朝鮮語における「私、父親、医者です」のような(述語とされるもの以外全て無助詞の)図式の文を見た場合、「私」と「父親」との、「私」と「医者」との、「父親」と「医者」との、語としての、語と語との(文法的)関係やその有無を見ることになります。
 そうすると、「私」も「父親」もそれぞれ医者である、という解釈か(「~も~も」とか、「二人とも」とかに対応する語がなぜか入っていない文という解釈になる)、「私」の「父親」が医者であるという解釈か(「~も~も」とか、「二人とも」とかに対応する語が入っていないという解釈ができない場合)、もしくは「私、父親の医者です」の図式の解釈になるか、この3つの解釈の可能性が出て来ます。
 なお、繰り返しになりますが、日本語と異なり(日本語の中にそういう方言がある可能性はありますが)、中国語、韓国語/朝鮮語の場合、名詞同士の連体修飾の際、(日本語で「の」を使うべきところであっても)「の」に対応する助詞が必要無いこともよくあります。
 一方、日本語の場合、「私は父親、彼女は母親、彼は兄、先生は奥様が医者」のような言い方が可能です。枕草子の「春はあけぼの」のように、(現代日本語なら「が」の入り得る部分を)(一種の)体言止め(のような形)にして、ドンドン話を長くして構わないのです。勿論、枕草子の時代の「が」にはそういう用法は無いのでしょうが、使おうと思えば(「が」の代わりにというわけでは勿論ありませんが)「ぞ」をどこかに入れたってよかったわけです。また、日本語の場合、「私、父親、医者です」のように無助詞にした場合、(そういう解釈の可能な方言がある可能性はありますが)「私の父親」という風には解釈されません。
 「象は鼻が長い」という表現自体は、こちらの投稿(『象は鼻が長いの意味2』)でお話ししたように、トルコ語・チュルク諸語を除く、環中国語(注5)の多く及び中国語自体で普通に(謂わば普遍的に)よく見られる表現のようです。ですが、少なくとも中国語や韓国語/朝鮮語では「私は父親が医者です(注4)」という表現はできません(そのはずです)。
 また、こちらの投稿(『象は鼻が長いの意味3』)で申し上げたように、日本語の場合、意味的に、私と父親とが(何らかの一定の意味的観点において)一致しない場合にも「私は父親」ということができ(※当然、比喩等で父親でない人のことを父親だと言うことはあり得、それは意味的に一致していると言える)、それは、文・節(或いは句の場合もあるか)として許容され得ます。日本語の文・節は、そのような意味的な一致の制約から離れています。
 日本語の文においては、その文内の語と語との関係を見るとき、(※或る語と述語とで文・節になっているということとは違う形で)語と語とを、文・節の関係に解釈できるケースが出てきます。私は日本語が母語で、それが普通なので、他の言語ではそうではないのかもしれない、という視点を持つことがこれまでできませんでした。
 ですが、「象は鼻が長い」にせよ「彼女は父親が医者です(注4)」にせよ、「象」「鼻」という語と語との関係、「彼女」「父親」という語と語との関係は、(恐らく)本来的な(ものと思われる)語と語との関係、(同格の問題は措くとしても)即ち文内の他の語に対する修飾語になっているか、(意味的にも)述語に係る言葉になっているかのどちらからも離れ(つまり文法的機能の拡張現象が発生している)、文・節の関係になっている、と、また、もし(意味的な一致という制約を重視する等の理由から)そのように捉えるのに抵抗が有ったとしても、少なくとも文・節に類似した関係になっている、と見ることができるかと存じます。
 日本語では、文内の語と語との関係が、文・節に準じたものに解釈できる場合があり(述語に係る語と述語とのコンビネーションでそうなっているわけではない)、他の言語ではそれは(その程度は措くとしても、少なくとも日本語と同じようには)できない可能性がある(勿論、日本語以上に自由にそのように解釈できる言語もあるかもしれません)、という視点を導入すると、中国語や韓国語/朝鮮語で、「彼女は父親が医者です(注4)」と言えない理由も見えてくるように思われます。
 ところで、私、塚本先生のこちらのお考えを拝読するよりもかなり以前から、「象は鼻が長い」(やそれに類似すると思われる文の対応部分)の、「象」「鼻」(の部分)には、文、節、また、ネクサスに準じた文法的な関係が見られるのではないか、という考えを持っておりました。そして、それを、いわゆる象鼻文の有る言語全てに敷衍することで、象鼻文の有る言語に共通する何かについて説明ができるのではなかろうか、という発想をしており、そこで行き詰まってしまっておりました。
 ですが、今回(6月後半)、塚本先生のお考えを拝読して、私が着目しておったのは、(他にもそのような言語があるかどうかの問題は措くとして)日本語ならではの言語事実、或いはそれと何かしらの関係がある部分だったのかもしれず、他の言語ではそうではない可能性もある、という部分にも着目すべきだった、と反省した次第です。

【結びに代えて】

 さて、ここまで、塚本先生のお考えを、何とか私なりに解釈しようと、そして、その視点から「象は鼻が長い」も見てみようとして参りましたが、果たして、先生のお考えがどこまで理解できているか、また、とんでもないような、根本的な勘違いをしていないか、至極不安/不安至極(「至極」の文法についての一考察→『中国語の最難関!?補語について2』)でございます。また、難しい内容を何とか分かりやすく解説しようとチャレンジすると意気込んだ割には、説明が却って分かりにくくなっているように思う、というご指摘が聞こえてきそうな気も致します。皆様にご指摘が頂ければ幸いに存じます。
 末尾ながら、「『語と文の成り立ちの違い』という根本的な要因」というお考えを、インターネットで、ご公開、ご教示くださった、塚本先生に、心より、感謝を、そして、ご尊敬を申し上げます。

■参考文献
注1:塚本秀樹『日本語と朝鮮語/韓国語の対照言語学的研究』

注2:韓国語学習支援サイト『初級までの朝鮮語・初級から先の朝鮮語』

注3:江副隆秀『日本語の助詞は二列』創拓社出版2007p232他
注4:黒羽栄司『現代日本語文法への12の提案』大修館書店1995p167
注5:安本美典・本多正久『日本語の誕生』大修館書店1978

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