たゆたい⑤

それからしばらくして、私は別の教室に異動が決まった。業務量に耐えられずに体調を崩しているからもっと負荷の少ない部署に異動させてあげてほしい、という彼の計らいだった。お別れの時は部署が開いたバーベキューに誘われて、普通に顔を出した。いたって普通にその日は楽しんだ。彼は他のグループに囲まれていたので、声を一度だけかけて挨拶をして、そのあとは話さなかった。気まずさは表面的にはもう払拭されていた。

その後、教室の職員だけで開くお別れ会を彼が開いてくれた。
異動する事務のおばさん二人と、私に渡したいものがあると言い、彼はそれぞれにそれを渡した。
「イメージカラーで選んだんです。山口さんはこれ。林さんはこれ。ゆずひなはこれ」
私が彼から手渡されたのはピンクのジェットストリームのボールペンだった。
彼から貰うものは何でも可愛らしく見えた。つるつるとしていて光を反射するピンクのジェットストリーム。
帰宅してからイメージカラーの意味を調べると、ピンクは「可愛いと思ってる人、好意を寄せている人」に渡すようだと書いてあった。告白ではないし、ピンクを選んだ意図はそこまで無かったかもしれないが私にとってはとても意味があるように思えた。

その日から、そのジェットストリームは私のお守りになった。
私にとっては持っていれば授業力に魔法がかかる安心のお守りになって、常にスーツの左ポケットに入れて仕事をしていた。仕事中、彼が傍にいなくても彼に激励を受けているような気持ちでずっと働くことが出来た。
彼が私にだけ、そういう魔法をかけたようだった。

思い返してみれば、彼は色々な記憶を私に残してくれた。
皆で食事に行って「サラダ部」と称して野菜サラダを大盛りで頼んで、お酒に酔って「お前の顔見ると笑っちゃうんだけど」と零したり、新人研修で後ろの席に座り、様子を見守ってくれたり。
カラオケに行った時に、目を閉じたフリをして私の下手な歌を聴いていたこともあった。
二人きりになることはなくとも、いつも傍で見守っていてくれたように思う。

やがて新しい配属先で働くようになり、彼との接点も少しずつ減っていった。
新しい配属先で、私はミスも以前より減り自分に合った業務量で働くことが出来た。授業の指導も問題なくこなした。彼の存在がなくても、仕事自体は忙しくとも円滑に進めることが出来、生徒との関係も良好だった。子どもたちに頼られたり、冗談を言い合ったりした。それが叶わなくても、前の職場でこんな風に働くことが出来たらよかったのに、と思うこともあった。
 
日が暮れるのが早くなって、冬がやってきた。教室は受験モードで子どもたちは皆机に向かって志望校合格のために一心不乱になって勉強し、講師たちは毎日授業で教鞭を奮った。
 
やがて、受験も終わり桜が蕾をつける季節が巡ってきた。子供たちは講師との別れを惜しみ、今までの感謝を告げた。

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