たゆたい⑦

そう思ってから、私はLINEで彼とのトーク画面を開き、「お伝えしたいことがあるので、今電話させて頂いてもいいですか」と打ち込んだ。表現が固めの、恋愛に不慣れな人間の使う畏まった敬語だ。
いつもと違い、すぐに「おー!」とメッセージが返されてきた。感嘆符が付いているから、気を遣ってくれているのだろう。
もうその時点で、すべてを見透かされているようだった。
新卒で入ってきた仕事も恋愛も上手くやるやり方を知らない部下が懐いてしまって、自分に今告白しようとしている。
感嘆符は、少しでも傷つけないようにした彼の図らいだった。
呼び出し音が鳴って、すぐに向こう側で彼が出た。
「……どうした?」
「あの、退職することになったので、…どうしても、伝えたいことがあって」
「おー、言ってみ」
「ブロック長なられたんですね。おめでとうございます」
「ありがとう」
「すごいです、自分に頑張ってるって言ってあげてください。いつも、みんなのこと考えててほんとにすごいなって思ってました」
皆、職場では頑張って成果を出すのは当たり前だと思っていた。彼はその中でもかなり出来る方だったので、表向きには褒めそやされながらも、陰で嫉妬されることも多かったのを私は知っていた。仕事の先輩や周りの男性がそういううっすらと流れる空気を作り出していて、私はそれがずっと息が詰まるようだった。絶対に言えない。
それに、彼だってそんな空気にはもうとっくのとうに気づいている。「仕事が出来る人」としてのキャラクターが出来てしまって、表彰を受けることはあっても直接彼に尊敬の言葉をかける人は少なかった。
その上、仕事は激務だった。「生徒、保護者に"誠実"であれ」というスローガンを掲げ、それを死守した。自分が体力的にも精神的にもボロボロになるまで働いて、同僚の心無い言葉や態度に傷つけられても、彼は自分を後回しにしてそのスローガンを守り続けて働いていた。

そこから、声に鼻声が少し交じり始めた。
電話の向こうで彼が嗚咽するのがわかった。
「ありがとう」
彼は、泣いていた。
その後もありがとう、と小さく零し続けた。
「近藤先生のこと、ずっと好きでした」
「うん、ありがとう」
今までずっと気づいていたかのように、返事をして、そこからまた涙を流しているようだった。
その一瞬で、もう限界だった。
何で、今更になって私は気づいてこの人に思いを伝えているのだろう。今更、気持ちがエゴという形になってしまうまで、どうして気持ちを伝えることを引き延ばしたのだろう。
ただ、それは勘違いで、やっぱり部下としてしか思っていなかったのにここまで懐かせてしまって申し訳なさで泣いているのかも知れなかった。
もうぐちゃぐちゃだった。私も気づいたら泣いていた。
付き合えなくても良かった。
ただ、あなたは誰よりも頑張っているのだということを伝えられればそれで良かった。
だけど、そこまで美しい人間でいることは出来ずに私は
「付き合っている方いますか」
と聞いた。相手になんてされないと思った。羞恥心と後悔と恋慕が入り混じって、もうよくわからなかった。
「いるよ」
今度は、きっぱりと、私に期待をさせないように断言した。
「そうですよね」
「うん」
「今まで、ありがとうございました。……本当に、ありがとうございました」
「……うん」
そこで、電話は彼から切れた。時間は大体5分くらいで、最後の「うん」も泣いていた。一度も、「ごめん」とは言わず、彼は電話を切った。
その場に涙と鼻水を流して泣きじゃくって立ち尽くす私は、ただただみっともなかった。


後から聞いた話だが、彼も転職を考えていたが上司に引き止められ、出世する代わりにその場に留まったのだと聞いた。
そうして、私の恋は終わりを告げた。

私は思い出した。
春先、前職に入社する直前に誰かにあたたかく優しく抱かれていた夢を見たこと。目が覚めた後は優しい気持ちに包まれていて、何が起こったかはわからないが涙をただ流していたこと。
それが、何かのはじまりを予見していたのだということ。

そして、今電話の向こうに置いてきた過去が何かの終わりなのだということを感じた。

彼はいつでも、誰に対しても優しかった。でもそれがなぜなのかは、あの場にいた私だけにわかる気がした。彼も、それを何となくわかっていたような気がした。わかってくれていたら、少しでも救われるように思った。
彼も私も同じ傷を心の中に飼っていた。
家庭の中で愛されたくて、愛される方法がわからなくて不貞腐れたり、想いが暴発してそれがささくれ立った言葉に変わって相手を傷つけたりした。抵抗したりしたら愛されたい気持ちを余計にわかってもらえなくて一人で耐えていた。
だから大きくなってから、愛される方法を身につけて生きてきた。相手のことをいつでも想うこと。時にはおちゃらけてみせたりすること。相手の懐に自然と入り込み、傷に触れて癒すこと。一緒に傷ついたり笑ったりすること。
傷つきたくない。誰からも傷つけられたくない。皆から、嫌われないようにしなければならない。
 彼にはわかったのだ。あのとき、私に「死ぬの」と問いかけた時に、もうわかったのだ。私が何か大きな傷を抱えていて、それに支配されてどうにも出来なくなっていること。それを誰かに零すことが出来ずに、苦しんでいること。言葉にすることなく、表情に出すという社会人としては受け入れられない方法でしか自分の感情を訴えて表現することしか出来なかったこと。それが、私のSOSの発し方だったということ。
私は誰かに救われたかったのだ。そして、彼はその想いをいとも簡単に見抜いて、掬い上げようとしていた。
 
 
それがとても、私は嬉しかった。
生まれたままの姿の私を救い出そうとしてくれたことが、私はとても。

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