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自浄機構のない権力はちょっとなぁ、、

今年(2024年)は年明け早々、能登半島地震、羽田空港での事故と、痛ましい出来事が続いています。そんな中、神速ともいえる対応を政府、自治体を主体に行っていただいている事には感謝しかありませんが、、それらと表裏のように「流言飛語」の伝播力もまた、速まってるなぁ、、とも。

こんな風に総理や県知事がガチギレしてそうな事案が、、岸田さん、増税メガネとか言われてもスルーしているのに、人の生き死ににかかわる事案についてガチギレしているのは、頼もしいですよ、、これは怒らせてはあかん人です。

なお、名指しを避けたのは温情かなんて見方もあったようですが、特定個人のやらかしに対してではなく、その人も含めた不特定多数に対しての諫めなのではないかと、個人的には。例えば、台湾も正式ルートで静かに激オコ事案があったりするからです。

どちらの事案も、当事者が何ら痛痒を感じていないのがどうにもこうにも、頭が痛い。政治信条の左右を問わず、極限に振り切れるとどうしてこうも同質の振る舞いをするのか、、どうにも「左右の全体主義たちによって帝国憲法そのものが骨抜きにされてしまった」との戦前の過ちを思い出してしまいます。

そういった意味では「X(旧Twitter)」のコミュニティノートの機能は集合知の在り様の一つとして興味深く見ています。通常の返信やポストはあくまで1対1のつながりをベースとしていますが、コミュニティノートは一定数以上の評価を元に現出してくるため、声が大きいだけの陰謀論者個人に対して、不特定多数のNOをダイレクトに多数つけやすくなっているのかな、と。

もちろん「絶対的な真実」なんて無いですから、より多くの賛同を得られるかどうかとの、ある意味で民主的な手法の一つかな、とも。個人的には、日本人の特性にもあっているような気がしますし、「SNSの自浄機構の一つ」として見ても有益ではないかなぁ、と。そんなわけで、一応投稿者としても登録してみています、いつくらいに開放されるのかは分かりませんが「根拠のあるツッコミ」ができるよう、心しておきたいところです(そもそも開放される保証もないですが)。

なんて思いながら、そういや、オールドメディアの自浄機構ってどうなってるんだろ、クロスオーナーシップへの規制がない時点で、期待はできないよなぁ、、なんて考えながら思い出したのが『第五の権力 - Googleには見えている未来』との一冊。

確か10年くらい前の本ですが、オールドメディア(テレビ、新聞、ラジオ等)の体たらくは、当時に輪をかけてひどくなっているのではないかと、あらためて。だいぶ錆びついた言い方ですがオールドメディアは、三権(司法、立法、行政)に続く第四の権力とも言われます。三権の相互監視だけでは自浄能力に不安が残るため彼らを監視する、ゆえに、社会の公器としての責任が、なんて言い様も、今となっては呆れるしかない状況です。

当のオールドメディアがその能力はおろか、機構すら持ち合わせてはいないのですから。今回の能登半島地震にまつわる報道のありようだけで見てみても、、初動が遅いだの、自販機が強奪されただの、避難に費用がかかるだの、共産中国への忖度から台湾を無下にあつかっただの、、細かいことを言えばキリがなくなってくるのは、まぁ、困ったものです。

卑近での実例だけでも溢れんばかりに出てきますが、インターネット環境がここまで整備される以前は、時に三権すら凌ぐ、凄まじい権力を振りかざしながら好き放題にしてました。そんなオールドメディアの闇を暴きうる力を持ったのが第五の権力、インターネットをインフラとして遍在する普通の人々で、これからの未来、そんな「普通の人々」はどんな想いで、何をしていけばよいのか、なんてことを、未来予想的にまとめた一冊で、出版当時(2014年頃)、それなりに納得しながら読んだ覚えがあります。

今現在(2024年)から振り返ってみると、エッセンスとしてはやや古めですが、なかなかに示唆的な内容で一種の未来予想的な位置づけで読んでも興味深く。少なくとも第四の権力たるオールドメディアが垂れ流す、恣意的な報道や誤報(時に虚報)は、即座にインターネットの世界ではその「嘘」を暴かれる機会も速度も上がってきているのは、あたってるなぁ、と、コミュニティノートとかを眺めながら。

面白いのは、コミュニティノートが、「オールド」メディアだけではなく、インターネットメディアも含めた「メディア全体に対する自浄機構の一つ」となっている点でしょうか、そういった意味ではリテラシーの高い普通の人々の在り様にもつながっているのかな、と。

「Google」の理念は「“情報”の全てをつなごう」といった感じだった覚えがありますが、ある意味その一つの着地点かな、、と、インターネットが永遠のベータ版であることを踏まえた上での感想も持ってみたり。

「情報(インフォメーション)」「情報を扱う力(インテリジェンス)」は、使いようによっては他者への支配的な影響力を持つ権力となります、仮にそれらが嘘にまみれていても。それが故に旧来のマスメディアは、第四の銘を冠することになりました。それは、10年以上前から第五を冠する存在、インターネット上に遍在する普通の人々によって徐々に崩壊へと導かれつつありましたが、ここ最近になってより、その崩壊具合に加速がかかり始めているのかな、とも、、というか、メディアとして包括されつつある、と見たほうがいいですかね。まぁ、日本においては、先進国では軒並み規制されているクロスオーナーシップをどうにかしないとその境地には上がれないでしょうけども。

長らく専権事項であった情報を扱う力が浸食されつつあることを意識させられたオールドメディアが、インターネットという存在に対し不自然なまでに敵愾心を燃やすのは、、それを本能的に悟っているからでしょう。インターネットの真の意味でのコネクティビティにいつか後塵を拝すことを分かってるからこその、あがき、なのかもしれません。

最近では、インターネット上のコンテンツを一次情報として、後追いするケースも増えてきていますね、、かって新聞がラジオに、ラジオがテレビに、その速報性との点で凌駕されていったがごとくに、ただ違うのは、インターネット上で情報コンテンツを取り扱う人々は双方向性が求められているとの点ではないかと。

それが故に、それまで安全なところから一方的に情報を発信しているだけでコントロールできていた時代は終わりを迎えています。それが故に、情報発信者は自分が発信する情報に責任を持つ必要を求められています。

なんてことのない、通常の社会生活を営んでいれば自然と求められる、自分の言葉には責任を持ちなさいと同じとは思いますが、、既存のマスメディアではそれを理解しようとする人々は少ないようで、、というか、根拠を持って論旨を組み立てる(間違っていたらゴメンナサイする)のは、普通に大学を出てれば、分野も文理も問わず、最初の「○○学概論」で叩き込まれるよなぁ、との想定なのですが、最近では変わってきているのでしょうか。

2014年当時、自分たちの意図した方向に動かない状況を「サイレント・マジョリティー」といったフレーズでも表現していたあたり、既存メディアがオールドメディアと揶揄されている原因の一つだったよなと思いながら、そういや、情報格差(デジタルディバイド)なんてフレーズがあったなぁ、とも思いだしました。

最近ではその格差もだいぶ埋まってきているとも感じていますが、その環境下で、いわゆるデジタルネイティブ世代が情報活用力(メディアリテラシー)を十全に活用できるようになってきたのも、最近の流れを加速化させている要素の一つかな、とみています。

そういった意味ではここからさらに、10年後、20年後の世界はどんな風に変わっているのかな、と想像してみるのも面白いですが、そのためにも情報収集を怠らず、活用力が鈍らないようにしていかないと、、まぁ、生涯コレ学習ですかね、、なんて、自分の時は最初の概論で、E・H・カーの『歴史とは何か』がテキストだったなぁ、とか、歴史学を学んだ一人として徒然に。

ちなみにこのあたりの現象を、私の世代でのネットミームだと「ggrks」が一般的だったかなぁ、とも思い出してみたり、、最近の子は知らないのかな、受験が終わったら息子に聞いてみよう。。


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