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格差社会 - 「日本と日本人への10の質問」

というわけで、塩野さんからの問いかけ「日本と日本人への10の質問」に対する久々の回答は「格差社会」から始めてみます。

■ 格差社会

2007年当時、私が「格差」と聞いて思い浮かべていたのは「情報」に対して、でしたが、今でもそんなに変わらないかな、と。当時は「メディアリテラシー」との言葉もだいぶ定着してきていた頃で「一般の目に触れる情報が如何に偏っているか」という点についての疑問からでしたが、、今現在は2007年の時よりもより一層強まってるなぁ、と、実感することも増えてきています、、その一方で、その偏向度合いが可視化もされるようになってきているとも感じていますが。

ちなみに、私自身がこの格差を実感する直接的なきっかけとなったのは「2002年ワールドカップ(サッカー)」だったと思います。それまでもいわゆる「近隣諸国条項」等々から疑問には感じていたものの、そこまで強く意識しておらず、解釈なんていろいろあるしねぇ、程度の感覚でした。そういった意味では、大学で「一次史料」を扱う機会の多い史学科で学べたのは幸運だったのかもしれません。

というのも、2002年当時でも国内オールドメディアとネット上での「情報格差」をスルっと理解することが出来ましたから。それだけ際立っていました、テレビに代表される「韓国礼賛」なアレなオールドメディア界隈の異常さ、異質さが。詳細は省きますが、普通にスポーツを楽しめる感性を持ちあわせていればいるほど「アレはありえない」、そうとしか言えません。ご興味を持たれた方は「FIFA10大誤審」などで調べてみてください。

その上で、ここ最近ですと能登半島地震における「デマ情報」の氾濫具合に少々辟易しています。少なくとも、表に出てくる必要のない(というか、現場を回すことに専念してほしい)政府自らが「一般向けに直接、精度の高い情報発信をしている」というのがありえないだろう、と。

この状況下にあることを、オールドメディア(特に公共放送)は恥と思うべきでしょうに、、クロスオーナーシップの規制は必要なのではないかな、と。日本くらいですよ、いわゆる先進国でこの規制がないのは、、何がジャーナリストなのかとも言いたくはなりますが、まっとうな公共メディアの必要性を痛感する度合いが増えてます。といった意味では、情報の格差はまだまだあるのだろうなぁ、と。

それでも「一次情報」に触れる機会は以前よりは相対的には「公平」に担保され始めているのかな、と感じる場面も増えているとも。とはいえ、情報に触れる機会を増やせても、受け手側の解釈の問題(リテラシー)もある以上、結果としての「格差」をゼロにすることはできないよなぁ、とも思ってしまいますけども。

さて、塩野さんは「格差社会」について次のように仰っています。

日本は昔から格差社会だったのではないか
日本社会特有の「緩和剤」ともいうべきものがこの格差を覆ってきた

出典:「日本と日本人への10の質問」 / 『文藝春秋(2007年7月号)』収録

ここでいう「緩和剤」とは、日本では権威と権力が分散しているのが伝統的であったが故、としています。ようは日本にとっての「国体」でしょうか。皇室の存在は本当に大きい、やはり大切にしていかねばならない「日本の核(コア)」だともあらためて。

格差のない社会という発想は、幻想に過ぎない

出典:「日本と日本人への10の質問」 / 『文藝春秋(2007年7月号)』収録

この点は非常に共感できる点で、少なくとも「機会の均等」が保障されていればむしろ「格差はない」と、個人的には。それを「結果の均等」を保障しようとするから話がややこしくなるわけで、、極端な言い方をすれば、誰しもがイチローさんや大谷さん、八村君と同じになれる社会が格差が無い社会ですか?、なんて言い方にもなりますか。

個人個人で目的も違えば目標も違う、手段も違えば結果も違うでしょうに。ただそれぞれが望む「結果」を得るための「機会」が保障されていれば、後は個人の自由で、せいぜい後は「他人様に迷惑をかけない(自己の考えを一方的に押し付けない)」「お天道様に恥ずかしくないように(共同体のルールから逸脱しない)」、この2つを意識しておけば大概はなんとかなると思いますが、、

「敗者復活システム」が機能している社会こそ、健全な社会

出典:「日本と日本人への10の質問」 / 『文藝春秋(2007年7月号)』収録

安倍さんの時、「再チャレンジ」計画とのフレーズがありました、安倍さんご自身が第1次政権の失敗を糧に第2次政権につなげたとの事もありますが、そういった意味では、国家という共同体が保障すべきは再起に必要な最低限の「衣食住」と、法治の下で生きていくため「権利」と、それらを不当に奪われない「治安」、それだけでいいかのではないかと、でないと「努力する人だけがバカを見る社会」になるだけでしょうね、、というかコレ、古代ローマの頃から変わらないよなぁ、、と『ローマ人の物語』とか思い返しながら。

まぁ、少なくとも「民主集中制」なんて階層の固定化を前提とする独裁主義な組織では無理な話なんでしょうけどね、とかもあらためて実感してますが。

その上で、「情報」を得る機会は公平に担保されているかどうか、となると、2007年当時やそれ以前と比較すると、ここ10年ほどで一次情報に触れる機会、手段は増えているのではないかな、と。また、X(Twitter)のコミュニティノートのような、自分の発信情報も含めて「情報を俯瞰できる手段・ツール」も多様化しているのが見てとれるのは、よい傾向だと感じています。

その上で、江崎道朗さん『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』の中で仰ってましたが、、

報道に対する国民のリテラシーを高めることであって、自分が気に入らない新聞の「廃刊」を叫ぶことではない

出典:『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』

との点は、自戒しておきたいところです。朝日とかTBS、NHKなどは日常的にデマゴーグや偏向報道を巻き散らかしており存在自体が害悪、と常々思っていることではありますが、彼らを単純に否定・排除するのではなく(したら共産主義者や全体主義者と同じになってしまいますしね)、その害悪さに毒されないよう、自身の情報活用力(リテラシー)を磨いていくほうに注力していくべきか、とは。

「格差社会」についてはこんな感じで、次は「働き方」になるかのかな。。


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