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再度起こし直したnote。ことばとはどうして受け手に届かないのだろう?

私の中に街がある。
私の中の街の人々が私の家のドアをたたく。

「近頃noteの街に出向かないけどどうしたの?自分のnoteにも向かわないけれどどうしたの?」

と。

……。ドアをたたく人たちに答えたいけれどなんとなくドアを開けたくない私がいる。言いよどむ私がいる。どうやら私は哀しいらしい。

私のnoteには思い出を書いたものがある。私にとっては大切な思い出だ。だけど私には思い出をきちんと表すことばが使えないようだ。自分自身のひとりよがりな文章だったのだと思い知らされたことがあった。

私ははっきりと思い出についての感情を書くことを避けた。相手についてもはっきりと書くことを避けた。

避けて書いたら性別さえもあいまいになった。だから間違えられたのだろうし、ことば一つとっても受け取り方が異なったのだろう。

私にとっての大切な思い出を私は片時も忘れてはいない。

「異邦人」ということばを私は単純な「外国人」と使ったわけではない。そこにはこの国にいられなくなりさまよわなくてはならなくなった理由を含んでいる。だけど最初に書いたnoteでは単純に海外にいる外人と受け取られる文章だったようだ。

ことばとはひとりひとり思い入れが違う。そして受けての受け取り方で全く違うものになってしまう。

私はその「感想」(感想としか思えなかったから。これもまた受け取り方なのだろう)に戸惑ってしまった。そんなにもかけ離れた印象を与えるような文章を書いてしまったのかと自分が情けなかった。

だから嫌ではあったけれど誤解のないようなはっきりとしたことばを選ぶことにした。

なぜ、主軸となる中に彫刻があるのか。エロスの矢は恋の矢だ。

なぜ題名をそれにしたのか。

説明的な部分を伏せていたけれど載せないとならないなら仕方がない。

察してくれという文章を他者は察してはくれないから。

読者は無名の筆者に思いを馳せることはない。

分かっていても哀しい自分がいることに気が付いた。時間がたつほどにこころの中に澱のように流れずたまっていく。

これを書いたとて気持ちが晴れるか分からない。だけど書かずにいられなかった。
もう一度書き直してみようと直した文章を載せる。でもはっきりと書いた文章は自分の好みではない。分からせようとしてはっきり書く文章は少しも自分の好みではない。

だけど性別も人種も違ってしまう読み間違えをされる様なものしか書けない自分にとってはこうしてはっきり書くしかないのだろう。

いつだって忘れていない存在を久しぶりに思い出した遠い思い出と受け取られる様な文章しか書けていないならはっきりと書くしかないのだろう。

そしてこれでもまだ受け手に違って受け取られたらどうしよう?と思っている自分がいる。


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