思想は永遠に…
ここのところ疲れている…らしい。
「らしい」と言うのは自分のことは気がつきにくいから多分そうなんじゃないか?と思っている。
「こころとからだは繋がっている」と深く思っている私にとってからだの疲れはこころの疲れでもある。
実際こうして書きたいことがありいくつもメモ書きにポチポチと残せど実際にnoteにアップするまでに至らないメモ書きの山が本当に山になってしまった。
いつもなら書き出せば言葉はとこからか紡がれ取りあえずアップ出来るまでにはなるのだが、近頃は言葉が出てこない。中途半端な言葉で終わりこの区切りで大丈夫というところまでいかない。
私にとって言葉とはなんだろうか?と今更ながら考えるとやっぱり「健康のバロメーター」であろう。
アウトプットできなくなった時はインプットしてまた言葉がどこからか溢れてくるのを待つしか無かろう。
なので近頃本屋に立つ。以前読んでもう一度読んでみたい本がある。
かつて私の本だった。主人の父が末期の腎臓がんを患っていた時その本を渡したのだった。
その後主人の実家に行くとその本がみえる場所にあり
「おとうさん少しずつ読んでいるのよ」
と義理の母が言っていた。
その本は私のこころであり私の言葉で伝えるよりこの詩人の言葉でちちに何かが伝わればいいと思って渡したのだ。
ちちからの感想は聞かずじまいで終わったがそれでも私のこころの中を少しでも理解して貰えたらと思えた。
人を元気づけるただしい言葉をその時の私にはなかったから。
私たちは誰もがひとりきりそれぞれの悩みに直面しても自分のなかで解決していかないと本当の解決にはつながらない。
だから孤独な苦しみを解決していくのもやはり自分でしかないのだと。当時の私はそんな風に感じ、そんなことを伝えたかったのだと思う。
自己満足と言えば人間なんてみな自己満足なのかもしれない。そんなことは今はどうでもいい。
ただ、その本をもう一度購入したいと考えたがどうやら廃版になってしまったらしい。
これは悲しいことで中古品はネットで購入できるも元値の8倍以上の値段がついている。
発売から7年の月日が経っている。増版されなかったのだろう。
今の私はそこまでしてそれを手に入れるかといえば否となる。ただ書籍というのはどんなに何冊もの書籍を出版している人であってもあっという間に廃版になってしまうのだなぁと改めて分かった。
出版業界も売れるものしか売らない。それは生きていくために仕方がないこと。だがいつの時代でも読み継がれていく良書もこうして日の目を見ることがなく葬られていく。
著者が生きている間はその著者はまた新しいものを書くことができ、こちらも読むことが出来る。しかし亡くなってしまった場合もうその人の言葉をきく術はないのだ。
そのために図書館が存在するのかもしれない。
しかし図書館はみなにシェアする場所だ。いつの時代も同じかもしれないがたった10年先に残されるものというのも意外と少ない。驚くほどの速さで本というものは消費されていく。
ネット全盛期になっても紙の本が読みたいし大切に扱いたと私は思う。
その詩人の書いたエッセイはきっと図書館で読むことが出来る。でもその詩人の新書はもう出ることはない。そして増版されないとなるといつかその本もその詩人も忘れ去られるのだろう。
だとしても、きっとどこかで同じことを考えるひとがでてくるだろう。そう思うと詩人を忘れても詩人の思想はきっと永遠に生き続けるのだろう。
なぜなら私たちは大きな無意識で繋がっていると思えるからだ。
他者への共感力、根底に無意識での繋がりがあるからひとは自分が経験しないものにも感情移入ができるのだと思う。
いつか私がもうこの詩人のことを忘れてしまった時に。もしかしたら私がこの世からいなくなってからかもしれない。その詩人と同じ気持ちを、思想を語るひとが現れるかもしれない。
世の中は恐ろしく速いスピードで過ぎていく。しかし人の思考はそれほど変わりはないのだとそう思いたい自分がいる。
まだまだたくさんの記事を書いていきたいと思っています。私のやる気スイッチを押してくださーい!