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ことばのちから

気がつけばnote生活も1年が過ぎていた。
日々noteにいる時間も

あまりないのだが

それでもポチポチと続けていると

良くして下さる方も出てくる。

いつもの見知った顔が

ハートマークを押してくれるのを見ると

ありがたいなと感じる。

ことばだけで繋がっているので

なるべく失礼にならないように

こころがけないとならないが、

先日うっかり相手を傷つけてしまった。

起きてしまったことは還らない。

不注意で招いたことばが

相手を傷つけたのなら謝るしかない。

そんなつもりは無かったが

人は受け取り方でどうにでも取れる。

だから相手が嫌ならハラスメントになるのだ。

いつも思っているのは人との関係性の中で

どちらか一方が悪いということはない。

他人は自分の合わせ鏡。

相手にされたことは

結局自分もやっているのだと

考えて過ごすようにしている。

そんなことを今回ふたたび

学べた出来事だった。

だから相手には感謝しかない。

それでも

もう二度とその人の所には行かない。

不満を言ったり文句をいうのは

思う通りに周囲がないからなのだけど

他者は自分の好きにはできない。

職場の同僚で不満を言う人がいる。

聞いていて、どうにもならないんだよ。

と言うがそれでは収まらない。

どうしていいか分からないから

それならどうしてあげたらいいのか聞く。

私には何か変えることは出来るのか?

するとその人は

どうにもならないのはわかっていて聞いてもらえるだけでいいと言う。

文句や不満を言っている人の話を聞かされるのはエネルギーを吸い取られるのに似ている。

私はある程度までなら許容できるけれど

それが続くと疲れるので

できるだけその話に寄らないことに

している。


やさしく有りたいという人がいる。

でもやさしさとはなんだろうか?

相手にやさしいことばや

肯定することばがけが

やさしさなのかと問えば否だと思う。

やさしさとは相手を赦せることなのでは

ないだろうか。

ふとnoteでの常連さんを思う。

私の無礼を受け流していてくれる。

私のように受け流せず留めることはない。

これは本当にありがたいことだと思う。

やさしくあるためには自分を越えないと

できない様に思う。

我を通しているうちは

やさしさなんて身につかない

そんな風に感じてしまう。

やさしさは自分で決めることではない。

だからやさしく有りたいと言うセリフ

それは自己満足な気がしてならない。

ことばは時に切り味鋭いナイフとなることもある。

やさしい人は我を出さない。そんな風に思っている。

ふとこんな話を話を書いていたらパソコンがご臨終状態になってしまった。

途中まで保存してあったがここからはスマホでの作業しか出来ない。

やっぱりこう言うことを書くもんじゃないのかもしれない。 

ここまでにしておこう。


まだまだたくさんの記事を書いていきたいと思っています。私のやる気スイッチを押してくださーい!