意見を言うということ
僕は今年50歳になるんですが、こんな年になっても「自分の意見を文字に記す」ってことの難しさに考えさせられる日々です。
複数の方からこんなご指摘を受けたことがあります。
「つっちがtwitterで言っていることはそのとおりだなと思うんだけど、同時に人を排除する結果になっている」
「つっちに薄く興味を持っている人けど違う感覚を持っているという人から見たら、『自分は近寄ってはいけないんだ』と人を遠ざける結果になっている」
恥ずかしながら実を言うと、この年まで生きて軽くカルチャーショックでした。
世代が古いせいなのか、単に鈍感なのか、僕は自分と違う意見や感覚を持っている人に対してあまり多くを思いません。「あ、そうなんすね」で大抵はおしまいです。
たとえ賛成できない意見だったとしても、話の筋が透徹していれば、その人を逆に尊重する気持ちになることもあります。
時には勉強になったりすることこそあれ、少なくとも「自分と違う意見を言われる」ことで「自分が排除されている」と思うことなんて考えられませんでした。
そんなの、友だちになるかどうかと関係ないじゃないですか。
* * *
相次いでそのようなご指摘を頂き、自分の中にふたつの考えが生まれました。
ひとつは「たとえ反感を覚える人がいたとしても、自分が書いたことを気に入ってくれて、実際に仲良くしてくれる人が確かにいる。twitterに何を書いているか程度のことで俺を嫌いになる人は、最初から自分と縁が無い人ではないか」という考え。
その一方で、「気がつけばフォロワーは2000人を超えた。長く続けていたらいつの間にか増えただけの話だけど、身動きが窮屈にならざるを得ないのは仕方ないのかもしれない」という考えも起こりました。
結局、「もうtwitterは何か真面目に考えたことを言う雰囲気の場所ではないのだ」という思いが勝りました。
実を言うとリアルの友人と話をするために、鍵付きのいわゆる裏アカも作りました。そして実際に友人の何人かと繋がってみたりしたんですが、いざやってみると、何も書くことが無いものですね。
ただひとつだけ、僕の中で固まった気持ちがあります。
「twitterに何を書いているかで相手の人格を判断したつもりになるようなことは、自分の方からは決してするまい」ということです。
twitterに書くことなんて、現実の生に対して1割にも満たない、ため息のようなものです。
「そのため息すらつくな」と窮屈なことを言う人もいますが、そんなガチガチなことを僕は求めません。
僕は目の前にいる人と話をしたいのであって、スマホの画面と話したいわけではないです。
* * *
そんなことを考えていたら、ボブ・ディランの「All I Really Want To Do」という曲を思い出しました。ディランの歌詞というのは意味不明なものが多くて、翻訳不可能なレベルのものもあるんですが、これは珍しく分かりやすい、言葉遣いのストレートな歌だと思います。
僕みたいに感じろなんて望んでない
僕みたいにものを見ろとか、僕みたいになれとか
僕はただ
友達になりたいだけなんだ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?