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ある夏の出会いと悲劇が少年を変えた(園部哲)

「園部哲のイギリス通信」第12回
"The Way I Found Her"(彼女を見出すまで)
by Rose Tremain(ローズ・トレメイン)1997年出版

小説家が出てくる小説というのはよくあります。しかしその小説を訳す翻訳家まで出てくる作品というのは珍しい。本書ではパリ在住のロシア人ヴァレンティナ(41歳)が小説家(フランス語で執筆)、英国デヴォン州に住むアリス(37歳)が翻訳家(フランス語を英語に訳す)という設定になっています。

もうこの設定だけで、翻訳業従事者の私としては気になって、たまらず本書をレジに持って行きました。家に帰って何ページか読み進めると、ヴァレンティナは前に使っていた翻訳家が気に入らず「彼女には死んでもらった」と物騒なことを言っております。どうでしょう、このワクワク感は!

ところで、この300数ページの物語の語り手はアリスの息子ルイス(13歳)で、本書の主人公もまたこのルイス少年であると言えるでしょう。

謎多き歴史小説家を恋い慕う英国の少年

1994年の夏、英国の翻訳家アリスが息子ルイスを連れてフランスへ飛び、夏休みを丸々パリで過ごすというのが本書の基本設定です。パリの滞在先は第8区のヴァレンティナの家。彼女は歴史小説のベストセラー作家で、自分が書いたフランス語の原稿をただちに英語に訳してもらいたいがために、翻訳家のアリスを自宅に招いたのでした。

日本で言えば中学3年生に相当するルイスは、フランス語が得意だったので、パリ暮らしでフランス語をブラッシュアップしようという狙いもあって母親に同行します。英国で留守番役となった父親ヒューからもらった小遣いで、ルイスは早速セーヌ河岸のブキニスト(古本商)へ出かけ、アラン・フルニエの小説"Le grand Meaulnes"(ル・グラン・モーヌ)を求めます。同作品はフランスの国民的青春文学で、英国でもフランス語を選択して原書講読をと思い立ったまじめな学生がカミュと並んで先ず手に取る小説です。ですから主人公のルイスがパリにやってきてこれを買うという行為には、教養を求める英国の一青少年の典型的な姿がうかがえます。

さらに蛙の子は蛙、ルイスは同書を毎晩少しずつ英訳するという宿題を自分に課します。仏→英の翻訳ですから指導を仰ぐなら母親アリスが適役のはずですが、ルイスはそうせずにヴァレンティナからの指導を心待ちにします。明らかに母からの巣立ちと、はるかに年上の女性に対する性的恋慕が透けて見えます。超美人ではあるけれどやせ型で冷たさの残る母親を、年齢的にも肉体的にも上回るヴァレンティナに飛びつくところには、巣立ちだけではなく母親否定と母親を上回るものへの憧憬が働いているのかもしれません。事実、それ以降母子の関係は冷たくなり、母親アリスは行き先を告げずにパリの町へ消えることが多くなります。

ルイスに与えられていた部屋は屋根裏部屋で、彼はそこの丸窓からパリの空と屋根を眺めて妄想に耽りますが、ひょんなことで屋根修理職人のディディエと友だちになります。首筋に鳥のタトゥーをしたディディエは実存主義者を自称します。ディディエから習ったサルトル流の投企の概念は本作品後半、ルイスを突き動かすものとして効いてくるように思われます。ルイスはまたセーヌ河岸へ古本を買いに出かけ、『罪と罰』の仏訳版を買い、これにも読みふけります。

こうしてルイスは、英国にいた頃には知らなかった2冊の文学作品、一つの哲学思想、そして28歳年上の女性に対するひりひりした思いを抱えながら真夏のパリの屋根裏部屋で煮えたぎるのでした。とりわけヴァレンティナへの一方的な愛は倒錯の極みに達し、彼女が使っているのと同じような口紅を買い求め、それを自分の唇に塗りたくっては自慰にふけったりします。

そこへある日ロシアから、ヴァレンティナの昔の恋人グリゴリーがやってくる。彼もまた小説家で、自分の作品が初めてフランス語に訳されたのでプロモーションのためにパリに来たのでした。ルイスとしては気が気ではありません。この男にヴァレンティナを取られてしまい彼女は手の届かぬ所へ行ってしまうのではないか。

ルイスの杞憂は別の形で成就してしまいます。グリゴリーがロシアへ帰ったあと、ヴァレンティナが蒸発してしまうのです。グリゴリーが彼女をロシアへさらっていったのではないかと推理するルイスでしたが、警察の調査ではヴァレンティナは国外に出ていないとことが判明。そうこうするうちにルイス宛てに不思議な手紙が届きます。例の小説『ル・グラン・モーヌ』のある部分を暗号に使った文章……。

それ以降はパリ第8区の富裕地区とは無関係な不潔で暴力的な場所へと舞台が移行し、ルイスは思いがけぬ場所でヴァレンティナに再会することになります。ここからエピローグにかけてが本作品の最も感動的な部分でしょう。しかし、残酷な悲劇が生じる個所でもあります。

複雑に絡む様式をまとめあげる見事な筆力

純文学系でもあればミステリーでもあり、心理ドラマでもあれば教養小説でもある、という複雑な組み合わせを著者トレメインは持ち前の技量と文章によって仕立てあげてくれました。破綻かと思われる不安なカーブを切ることもある著者ですが、彼女の知性というハンドルさばきに万全の信頼を寄せていれば、いつも裏切られることなく、最初のページを開いたときには思いもよらなかった世界へ連れ去ってくれる、これもまた著者の筆力に感心する作品でした。

執筆者プロフィール:園部 哲 Sonobe Satoshi
翻訳者。ロンドン在住。翻訳書にアリエル・バーガー『エリ・ヴィーゼルの教室から: 世界と本と自分の読み方を学ぶ』、フィリップ・サンズ『ニュルンベルク合流:「ジェノサイド」と「人道に対する罪」の起源』(いずれも白水社)など。朝日新聞日曜版別紙GLOBE連載『世界の書店から』でロンドンを担当。

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