見出し画像

新型ウィルスがもたらした「空白」と「問い」(新元良一)

「新元良一のアメリカ通信」第7回
The End of October: A novel
by Lawrence Wright 2020年出版

自分の生きているうちに、こんなことを経験するなんて思わなかった。最近日本にいる友人とやりとりすると、相手からそうした言葉を聞かされる。

“こんなこと”とはもちろん、世界中で拡大する新型コロナウィルスの感染のことだ。

このウィルスが出現し、猛スピードで感染を拡散し続ける状況で、人間は多くの大切なものを奪われた。そのうちのひとつが移動の自由でないだろうか。

国をまたいで感染が及んでいることから、ほとんど逃げ場がなくなった。とくに人口が密集する大都市では甚大な影響が及び、筆者の暮らすニューヨークも一時期爆心地(epicenter)と呼ばれ、感染者、死者ともに群を抜く数に達したのは日本でも報道されている通りだ。

「移動」の自由は場所だけではない。時間移動というとまるでSFの世界の話のようだが、自宅での待機を強いられた結果、個人のみならず社会全体で時間の流れが停止し、あたかもエアーポケットに入り込む、そんな感覚を得ることがここ最近よくある。

ローレンス・ライトが書いた長編小説『The End of October』を読んだときにその感覚が湧いてきたのは、本作が感染病の流行する物語世界を描いているからだ。

原因不明のウィルスとその謎

インドネシアで原因不明のウィルスが発生した報告を受け、物語の主人公で米政府の感染症対策の研究所(CDC : Centers for Disease Control and Prevention)に所属するヘンリはさっそく東南アジアへ飛んだ。到着後に案内されたのは、ウィルスの感染者たちのいる隔離された場所である。

医療体制が整っていない狭い空間でヘンリが目にしたのは、まさに生き地獄と呼べる悲惨な光景だ。疫病を患う多くの地元民たち、さらには治療にやってきた医療機関の関係者を含めた亡骸がその辺りに放置されていた。

そこで予想しなかった事態が起こる。タクシーにより隔離施設へ赴いたヘンリだったが、施設内に彼と同行したのが災いし、運転手が疫病に感染した可能性が出てきた。

ところが、運転手の男の行方がわからなくなった。自身も隔離期間を終えたヘンリは、やがてイスラム教徒であるその男がメッカ巡礼の旅に出たと聞き、すぐに彼の身柄確保のためサウジアラビアへと向かう。しかしあまりの数の巡礼者を前に居場所が突き止められず、やがて運転手が病死したと知らされる。

こうして新型のウィルスは国境を超え拡散されていくのだが、これを物語の軸に、ヘンリの家族、疫病対策に奔走する政府関係者などが登場し、緊急事態における人間ドラマが描かれる。ヘンリのメンターである恩師が倒錯的な思想の持ち主で、この科学者が関わるウィルス発生の陰謀が明らかになっていき、次にどうなるのかと読む者を惹きつける展開は、スリラー小説の醍醐味が楽しめる。

ピュリッツァー賞作家による臨場感あふれる筆致

フィクションという虚構の物語でありながら、本作がいわゆる“真に迫った”様相を呈するのは、ピュリッツァー賞を獲得し、“9/11に関する最も優れた書き物”と誉れ高いノンフィクション『倒壊する巨塔』著者による臨場感あふれる筆致に拠るところが大きい。

新型ウィルスの感染拡大に手の打ちようがなく、右往左往するばかりの米政権内にあって、副大統領が会議の席で感情をあらわにする場面など、我々がいま直面する状況とオーバーラップし、実際にこんなやりとりがホワイトハウスの執務室で繰り広げられてるのか、などと思わせる。エボラ出血熱やスペイン風邪の流行が、過去に多大な被害を及ぼしたウィルスの歴史に関する事柄も紹介され、物語における現実味や信憑性はさらに深まっていく。

だが何よりも本作を際立たせるのは、インドネシア、サウジアラビア、アメリカ国内なら首都ワシントンDCと南部アトランタと、地理的に隔てた場所をつなぎ、同時期に人々が苦境に陥る様子を平明な言葉で活写し、これらをまとめるスケールの大きな構成力である。

たとえば、メッカにいるヘンリが同国の王族出身で同国の医療担当相とともに屋内にいると、反体制派の過激グループによるテロ事件に巻き込まれる。幸い難を逃れたヘンリだったが、職務上のパートナーである医療担当相が負傷し、その場でヘンリが治療を施すことでふたりの友情が深まっていく。

ちょうどその頃アメリカでは、ヘンリの妻ジルがウィルス感染を防ぐため、子どもたちを連れて移住先の郊外で暮らす妹を、そして自宅のあるアトランタに戻っては、介護施設に母を訪ねる日々を過ごす。フェイスタイムを通じて、ヘンリとは毎日連絡を取り合っているが、それでも夫婦の間には埋められない空白が存在する。

この「空白」が、前述したエアーポケットの正体である。

身動きが取れず、閉じ込められた環境に置かれた結果、孤独感はもちろん、新型ウィルスという敵に対抗できない無力感が物語全体で漂う。それはまた、前に進むことしか考えていなかった人間を立ち止まらせ、自分たちを見つめ直し、何が真に必要不可欠なものかと、我々に問いかけているようにも映る。

執筆者プロフィール:新元良一 Riyo Niimoto
1959年神戸市生まれ。84年に米ニューヨークに渡り、22年間暮らす。帰国後、京都造形芸術大で専任教員を務め、2016年末に再び活動拠点をニューヨークに移した。主な著作に「あの空を探して」「One author, One book」。

よろしければサポートをお願いいたします!世界の良書をひきつづき、みなさまにご紹介できるよう、執筆や編集、権利料などに大切に使わせていただきます。