見出し画像

第12回 「ダメな人」を書くのはますます難しくなる

[編集部からの連載ご案内]
脚本を担当されたNHK朝ドラ『ブギウギ』も終わり、次の作品がとても楽しみな脚本家・監督の足立紳さんによる、脱線混じりの脚本(家)についての話です。(月1回更新予定)


僕のシナリオにはよく「悪い人が出てこないよね」と言われます。これはまったく褒め言葉ではなくて、簡単に言うと毒がないということです。映画やドラマはそもそも人間賛歌的なものが多く、人間の良い面を描くことを得意としている分野だと思います。数えたわけではありませんが、努力によって何かを成し遂げたり克服したり、何かを経験して成長したりする物語がとても多い印象です。ただ、僕の書く脚本は「悪い人が出てこないね」と言われつつも、何かを克服したりわかりやすく成長したりする物語はほとんど書いていなくて、どちらかというと克服できない、克服しようとしない人やあまり成長しない人、つまり頑張れない人を描いてきました。なので悪い人は出てこないけれど、だらしのない人や怠け者と呼ばれる人はよく出てきます。こういった人たちが多く登場しながらも、僕の作る物語も人間賛歌であることには変わりないと思っています。「だらしなくてもそれが人間てもんじゃないの」という、負の部分もひっくるめて肯定しようじゃないですかということですが、映画やドラマでは古くから言われていることで、それ自体は珍しい描き方でもなんでもありません。

僕自身「自分はダメ人間である」と思ってずっと生きてきました。学力は常に下の中くらいで、文字に関しては人が見て解読できる字をこの年齢になっても書けません。これは大きなコンプレックスになっていて、人前で字を書かなければならないときは極度に緊張して、理由はわかりませんが滝のように汗が噴き出してしまいます。パソコンもほとんど使えません。少し前までこういった原稿の文字入力もできない始末で、汚い字で書いたものを妻にパソコンで打ってもらっていました(今は少し使えるようになりました)。字が汚いこともパソコンがほとんど使えないことも人としてダメでもなんでもないとは思いますが、良いこととしては捉えてもらえません。逆に字が美しいことは素晴らしいことだと捉えられています。美しい字を書く人は心も美しいなんてなんの根拠もないことすら言われていたくらいですから。パソコンに関しても「使えないのは覚える気がないからだ」と何度言われたことか。覚えたくてもまったく頭に入ってこないのです。

何が言いたいかといいますと、自分では字を丁寧に書いているつもりでも人から見ると丁寧ではないようで僕は困っていたのですが、どうやらそれはディスグラフィアではないかと思うようになりました。書字障害(文字を正しく書けなかったり書くのに時間がかかったりする症状)というやつです。僕の息子も壊滅的に字が汚く、何度丁寧にと言っても(自分が言われて嫌だったことを息子に言っている。これも人間あるあるではないでしょうか)丁寧には見えないのですが、息子にとっては丁寧なのです。他にも学習面での躓きが見られたので調べてみると学習障害(LD)という言葉に行きつき、息子の性格からもしやと思い病院に行ったら自閉スペクトラム症と診断されました。たいていの人が簡単にやれることでも苦手なことが多かったり、感覚過敏であったり、逆に痛みに鈍いなど鈍麻な部分もあります。

それで僕自身も息子と同じタイプなのではないかと思うようになりました。片付けが極度にできなかったり、人に何かを頼まれたことをほぼ忘れてしまいます。時間にもルーズですし、コンビニバイト時にはなんの躊躇もなくレジカウンターで新聞を読んでいたり疲れたら座ってしまったりしていたこともありまして、そのたびに店長やバイトの先輩から「非常識だ」と怒られていました。こういう人は世間では「だらしのない人」とか「ダメ人間」などと呼ばれるようになっていきます。ですので僕は自分のことをダメ人間だと思って生きてきたのですが、息子と付き合い、医者と付き合い、療育の先生と付き合っているうちに、これはダメ人間なのではなく、もともとそういうタイプの脳を持って生まれてきただけの人間なんだなと少し考え方が変わりました。そしてこれにともなって、映画やドラマの見方も変わってきました。
 
今まで僕が見てきた映画の中にはおかしなキャラクターの人たちがたくさん出てきましたが、もしかしたらそういう人たちも「だらしがない」「普通にできない」のではなく、そんな脳の特性を持って生まれてきてしまっただけではないだろうかと思うようになったのです。そうすると「ダメ人間」だとか「だらしのない人間」などと簡単に切り捨てるように言ってしまっていいのかと疑問になります。人はいろんなタイプで生まれてきます。僕や息子のように苦手なことがたくさんある人もいれば生まれつき手や足がないとか目が見えないというような人もいます。生来不機嫌気味で怒りっぽい人もいるでしょう。その人がそのまま大人になればパワハラ人間と言われてしまう可能性もあります。苦手なことや出来ないことが多いということを、「成長」や「発達」から遅れているからと言って「ダメ人間」とか「だらしのない人間」とかと見なすのはもう無理があるのではないかと僕は思います。

幼い頃から苦手なことが多くて注意をたくさん受けてきた人たちは自己肯定感も低く、人からバカにされたり相手にされなかったりすることで二次障害を引き起こす可能性もあります。数年前に長澤まさみさんが主演した『MOTHER マザー』という映画がありましたが、自分の子供に祖父母を殺させるあの母親にはやはり生まれ持った何らかの特性があり、その特性のせいで他者から邪険に扱われ続けて二次障害を起こしているように見えました。それがあのような犯罪を犯すことになってしまった一因ではないでしょうか。ですが見る人によっては、あるいはこの映画に出てくるような痛ましい事件を報道などで知った人の中には、その犯罪を犯した人を「狂った人間」だとか「怪物」などの言葉で片付けてしまう人もまだまだいると感じます。

『MOTHER マザー』の中には長澤まさみさん演じる主人公が実家で両親と対峙している場面がありますが、その両親の絶望的な表情から、二人はきっと幼い頃から主人公の扱いに困っていたのではないかと推察できました。世間的には「ダメ人間」とくくられてしまう人、そのうえで何かとんでもないことをしでかしてしまう人を描くときは、そのような人と対峙して疲れ果て傷ついてしまった人、あるいは被害にあった人を描くときと同じくらい丁寧に描かなければならないのではないかと思うのです。もちろん犯罪者を丁寧に描いた物語はたくさんあって、その生い立ちや育った環境にも原因の一端を見出だせるようになってはいるのですが、もはやそれだけでは不十分で、前述のように生まれながら持ってしまった脳の特性や遺伝的要因によって、他人の顔色や気持ち、自分の気持ちすらもうまく認知できずに世の中からはじき出されてしまう人たちがいることにも触れていかねばならないのではと感じています。

人間が百人いれば百人違うとは昔から言われてきたのでしょうが、それが科学的というのか医学的というのか適切な言葉はわかりませんけれど、人それぞれの個性というのか特性のようなものが以前よりも「説明がつく」というようになってきたのではないかと思います。そうすると「ダメ人間」として今まで登場してきた人物を見ても、「あ、この人ってもしかしたらこういう特性をもともと持ってるんじゃないか」と多くの人が思うようになるのではないでしょうか。例えば『男はつらいよ』シリーズなんかでも寅さんはきっと普通の日常生活を送るのが困難な気がします。みんなとうまく同じ行動をとることがそれまでずっと出来なかったのではないでしょうか。そんな人を見て、「ま、あいつはフーテンだからよ」と簡単に言ってしまうことはもうできなくなるのではないかと思うのです(寅さんは居場所を見つけられたから良かったですが)。これまでは「ダメだけどなんか憎めない」というキャラクターで通せた登場人物に対しても、「ダメなのではなくそういう特性」として見るようになるからです。

そういう意味で、今まで「ダメ人間」と言われてきた人の映画やドラマの中での描き方というのが難しくなるのではないかと感じています。かといって、自分が何らかの特性を持っていなくても、他人の持つ特性に対して詳しい人だっていますから(例えば医学的知識があったりとか、身近にそういう人がいて苦労しているとか)、そういう人物を登場させないことも不自然に見えるようになるのではないでしょうか。映画やドラマの作り手や小説家の方の中には、「わからないから描いてみたい」という欲望もあると思うのですが、人間の不思議さが少しずつ解明され説明がついてくるようになってきた今、「わからないから描く」という動機の観点で考えると、もしもいつか人間の性格や行動すべてに説明がついてしまうことになったら、どんなふうに人間を描くのだろう? 描けばいいのだろうか? なんて思ってしまいます。

なんだか「おまえは人間のことをいろいろわかってるふうに書いているけど、ほんとにわかってんのかよ」と突っ込まれそうな文章になってしまいましたが、言うまでもなくわかっていません。自分の子供たちですら「どうして同じ親から生まれて同じように愛情をそそいで育てているつもりなのに、こうも違う人間になるんだ」なんて思っている始末です。それこそ脳から体の大きさや運動能力から何から何まで違うんだから当たり前だよってことなんでしょうし、違う人間を同じように育てていることがそもそも間違いかもしれません。子供のような自分に近い他者はおろか自分自身の取り扱いにも困ることがあるくらいですから、自分のことすらも理解できていないのかもしれません。だから僕は自分と似た人間を主人公とした物語をたまに書いては自分探しのようなことをしてしまうのかもしれない、とここまで書いてきてふと思いました。僕の場合は他者を知ろうとする前に、まずは自分のことを少しは知ろうとするところから始めなきゃならないようです。

足立紳(あだち・しん)
1972年鳥取県生まれ。日本映画学校(現・日本映画大学)卒業後、相米慎二監督に師事。2014年『百円の恋』で日本アカデミー賞最優秀脚本賞、菊島隆三賞など受賞。2016年、NHKドラマ『佐知とマユ』にて市川森一脚本賞受賞。同年『14の夜』で映画監督デビュー。2019年、原作・脚本・監督を手掛けた『喜劇 愛妻物語』で第32回東京国際映画祭最優秀脚本賞を受賞。その他の脚本作品に『劇場版アンダードッグ 前編・後編』『拾われた男 LOST MAN FOUND』など多数。2023年後期のNHK連続テレビ小説『ブギウギ』の脚本も担当。同年春公開の監督最新作『雑魚どもよ、大志を抱け!』でTAⅯA映画賞最優秀作品賞と高崎映画祭最優秀監督賞を受賞。著書に最新刊の『春よ来い、マジで来い』ほか、『喜劇 愛妻物語』『14の夜』『弱虫日記』『それでも俺は、妻としたい』『したいとか、したくないとかの話じゃない』など。現在「ゲットナビweb」で日記「後ろ向きで進む」連載中。
足立紳の個人事務所 TAMAKAN Twitter:@shin_adachi_

/ ぜひ、ご感想をお寄せください! \
⭐️↑クリック↑⭐️

▼この連載のほかの記事▼


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?