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みんなが英語4技能をまんべんなく身に着ける必要はないということ

英語科教員を11年やって転職しました。高校3年生を主に受け持っていました。
 
やめたのには数えきれないくらい理由がありますが、英語教育の現状と未来の展望に嫌気がさしたってのも一つありました。
 
文部科学省が長らく金科玉条のように掲げている「英語4技能教育」にまつわるアレコレに対してずっと思ってることを垂れ流します。
あくまで個人の所感、エビデンスだ数字だは存在しないので悪しからず。
 

なんだかんだ言っても英検3級レベルでいい

私は英語が全然いらない人もいるだろうと思ってます。使わなくても一生困らない人。国際社会だなんだって言ったって、英語使用がそんなに仕事の上で広まっただろうか。すべての職業で英語が必須だろうか。少なくとも今私がしている仕事では英語は全然使いません。

収入の面で違ってくる、なんて説もありますが、
全員が高収入目指してるはずないでしょ。

それに、これほど英検だTOEICだってやらされた今の20代から下の世代においては、英語がちょっと(準1級くらい?)できる人なんか掃いて捨てるほどいるので、特別それでビジネス上武器になるってことはない。
「英語+アルファ」、と長らく言われていますが、
どっちかというと「+アルファ」の方が大事そうです。
 
まあ、学校で基礎の基礎は学んでおいて、必要になった際にその先を勉強できるようにしておくくらいがよいでしょう。
でもその基礎ってせいぜい「中学英語」ですよ。英検で言うと3級です。
 
noteには英検準1級、1級を目指して努力している方、その指導をされている先生方がたくさんいらっしゃいます。
そういう方たちをくさしたりバカにしたりする意図は一切ありません。素晴らしいと思います。応援したいと思います。やりたい人はどんどん学べる環境が整えられるべきです。よりよい教材、教授法、学習法が開発されるべきです。
 
でも、一方で、英語を勉強する意味がわからない、特に好きでもないし使うあてもない、ただ受験のためだけにやらされていて本当につらい、と思っている子たちがたくさんいるよな、と思って書きます。
 

「4技能5領域をまんべんなく」は学ぶ側でなく教える側の問題ではないか?

いつのまにか「4技能5領域」になってましたね。
「聞く」「読む」「話す(やり取り:interaction)」「話す(発表:production)」「書く」ことの4技能5領域 だそうで。まあわかる。
 
学校の授業やテストが「4技能5領域」のバランスを意識したものになること自体は、よいことだろうと思います。
(この中で発信系の「話す」「書く」2技能は評価がかなり難しく、公平な評価をしようとするとやたら甘い採点になってザルのようなテスト対策で乗り切れてしまうため、あまり意味がない気がする、なんて話はおいておくとして)
 
しかし、一人一人が「4技能5領域」でバランスよく習熟度を上げていく、などということを国をあげて目指すべきなんですかね?
 
長い間、学校の英語教育が「読み」に重点をおいて他を顧みないできたことは反省すべきことでしょう。
「読む」は苦手でも耳から聞けばわかる、会話はできる、というタイプの生徒も多かっただろうから。
だから、それぞれの領域をまんべんなく評価するように変えるのはよいことだ、それは間違いないと思います。
 
でも、それがイコール「一人ひとりが聞く・読む・話す・書くをできるようになることを目指す」になるのはどうも、違う気がするんですよ。
いや、目指したい人は目指してもいいんだけど、
「あなたはリーディングが80点、でもスピーキングが10点なので不合格です!」
みたいなのはやめてほしんだよね。

一人ひとりを評価するときに「できなさ」を見るみたいな感じにするのは。
 

「個性」「多様性」と「バランスよく4技能を身に着けよ」の矛盾

「読む」は得意だが「話す」は厳しい。
「話す(やり取り)」は抵抗なくできるが、「書く」となるとからっきし。
……なんてことは日本語だって十分あることじゃないか。
 
「バランスがよいこと」がそんなに大事ですかね?
ある一個人の能力は、だいたい偏ってるものでしょう?
「個性」をはぐくむとか、「多様性」を大事にするとか、曲がりなりにも口にするのなら、
英語だってそれぞれが得意なものを伸ばせばよい
、ってことになりませんか。

大学入試での英語試験の扱いはもっと柔軟にしようよ

もちろん、繰り返し言いますが、どの分野も学ぶ機会があるのはよいことですよ。
4技能それぞれは当然つながっているので、一緒に学習することで相乗効果が期待できます。
だから学習の機会は4技能均等にあって然るべきです、でも、
一人一人が自分の特性と好みにあった重点強化項目を選ぶことが公然と許されてほしい。
 
学校の授業は「4技能」を意識したものにするとして、
入試で「4技能」ばかり押し出さずに、2技能くらいを選択して受験する形をもっと増やしてほしいんですよ。
たとえば「私は英検のリーディングとライティングのスコアで評価してほしい」、みたいな。
 
(スピーキングとライティングの公平な採点ってほぼ不可能だし、実現したらおそらく形骸的なものになる、という話は置いておくとして)

そもそも大学受験で高校英語って全員に本当にいるものか

というか、そもそも、ほとんど全ての大学の学部学科において「高校英語」が必須とされているのがおかしい。
もちろん後々の人生で「あれっ英語いらんと思ってたけど、いるようになったわー」というパターンは大いにありえるので基礎の基礎はほしいけど、それは中学英語で十分ですよ。繰り返し言うけど。
 
教員時代、英語科の先生たちがしばしば口にしていたのが
「中学英語を本当に身に着けることが大事」。
英検も3級がギリギリ取れたからOK、次準2級ね、なんて進み方はよくない。3級でほぼ満点が取れる力がついてから準2の勉強を始めるべき。とにかく中学英語を丁寧に、しっかり。
正直、中学英語が本当にバッチリできるレベルだったら、人生で後から必要になったとき自分で学べますからね。そこいい加減なまま大学受験の勉強させるからダメなんだよ。3級でわからない問題があっちゃダメなんですよ。先に進もうとするならね。
 
で、大学受験のために勉強する英語の代表が共通テストでね。
 
私は入試の問題ってそのために勉強したらその子のためになる、という性質のものでなければならないと思う。
 
今の共通テストの英語。アレの勉強をするメリットが、本当に、大学受験者全員にありますか?

あの試験は英検準2級未満の生徒を無視する試験です。
英検2級合格近い英語力がなければ、アレの勉強をする意味はない。
そしてアレは絶対に「共通テスト用の対策」が事前に必要なタイプの試験なんです。
でもその対策のためにさく時間が、本当にその子のためになる、そういう生徒の割合ってどれくらいなんですか?

アレで点数を取れないだけでこうも不利になる大学受験の現状は、実社会を全然反映してないんじゃないですか?
英語の試験で点が取れないってだけで、他の能力がある子が将来への選択肢を大きく失うのって、おかしくないですか。
 

大学受験英語のせいで劣等感を持たされる子どもたち

キャパシティに恵まれた生徒はいいんですよ。
でも現実、そんなことないから。
鉄棒の逆上がりができて二重とびができてハードル走ができてクロールで50メートル泳げてバスケもサッカーもできて側転ができて、ってみんなそうですか??なわけないじゃん。
 
みんなそれぞれ限られた時間と能力しか持ちえない。そして、英語にそんなに時間かけても、って人もいます。現実に。(私たちの教え方がよくなかったとかいうことはもちろんあるでしょうけど……)

英語の習得のしやすさは人によって違う。真面目に勉強しているのに英検3級が取れない高校3年生もいました。それが現実です。
そういう子は「自分はダメだ、頭が悪い」って思いこまされてしまう。
違うんです。あなたは他の才能があるから、そっちに時間を割いた方がいいってだけです。
そうやって苦しむ子をたくさん見てきました。杓子定規に、「大学受験だから英語は必須です」って言われるせいで……
 
文学部、外国語学部なら必須でしょうけども、また英語の論文を読む必要があるような学部学科ではいるでしょうけれども。
大学側が英語を試験に課さないことで「低く見られる」のを恐れて、横並びに英語を試験科目として課している、そんな側面がありやしないかと疑っています。
本当はさほど必要でもないのに。形だけ課している試験。

一人ひとりはバランスなんかよくなくていい

……英語を受験で課すのはまあいい、ってとこまで戻そう。
英語4技能5領域、どれも伸ばせるようにって教える側が心がけるのはよいのですがね、
生徒の方に「私は〇〇はできるけど△△ができないから困る」って思ってほしくないな、と。
いいんだよ、一個でもできれば。
「まんべんなく」とか「バランスよく」なんて知るもんか。
みんな得意不得意あって助けあって生きてくんだよ。一人で丸くならなくていいんだ。
 
 
……全然、うまく言えん。
「いや、あなたの言っているそういうことなんですよ我々が目指してるのは」って文科省の人は言うんだろうか。
長らく世間に蔓延している4技能の大合唱から私が受けるイメージは違うんだけど。
 
参考資料集(外国語教育) (mext.go.jp)
  

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