桜にまつわるいい話③

桜エピソードの最終話です。

日本の話ではなく、遠く離れた中央アジアのある街で起こった出来事です。

日本人ならば知っておくべき桜にまつわるエピソード其の三、今回がこの桜シリーズの最終話です。

それでは、最終回をじっくりとお楽しみくださいませ。

日本から遠く離れた東欧の国、ウズベキスタンの首都タシュケントという街のお話です。

ウズベキスタンというのは、1991年旧ソ連から独立した中央アジアではリーダー的存在の国です。

面積は日本の1・2倍、人口は2200万人。

タシュケントはその首都で人口は220万人、近代的ビルが建ち並ぶ大都市です。

その都市にウズベキスタンで一番有名なナヴォイ劇場というレンガで造られたビザンチン様式のそれはそれは立派で美しい劇場があります。

劇場の左壁のプレートにはウズベク語、日本語を含む四カ国語でこう刻まれています・・

『1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ ― 名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。』


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そうです、この劇場は戦後ソ連の捕虜となった日本人抑留者の手によって作られたものだったのです。

第二次世界対戦が終わった1945年、25,113人の日本人捕虜がウズベキスタンに移送されそのうち9,760余名がタシュケントに移送されました。

大きな犠牲を払いながら数年にわたり日本人捕虜が都市建設に貢献したのです。

その中で今回のテーマであるナヴォイ劇場の建設に携わったのは永田行夫元陸軍技術大尉率いる450人からなるタシュケント第四ラーゲリー隊でした。

隊長の永田氏は当時25歳だったそうです。

永田氏は当時の事をこう振り返ります・・

「無論、不幸なことには変わりはない。食事は常に不足して、私も栄養失調で歩くのがやっとの時期がありました。南京虫には悩まされ、月一回のシャワーは石けんを流し終える前に湯が切れることが常でした。冬はあまりに寒いので建設現場の足場板を持ち帰って部屋の薪にしていたのですが、後にばれて厳禁となりました。」

ウズベキスタンに送られた25,113人の内わずか2年で栄養失調や過労で813人の犠牲者が出たことを考えれば、どれほど過酷な環境であったか容易に想像できます。

おそらく体力は限界を超えて気力だけで作業をしていたのではないでしょうか。

彼らはある言葉を合言葉のように言い合って頑張っていました。

「生きて日本に帰って、サクラを見よう」

そんな地獄のような過酷な環境の中、日本人抑留者は実直、勤勉に仕事に励み予定工期を大幅に短縮し、わずか2年で威風堂々とした劇場を完成させました。

完成した時、450人いたラーゲリ隊のうち79人が帰らぬ人となっていました。

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このきれいな天井の模様も、繊細な彫刻も、全て日本人抑留者が細部にまでこだわって作ったものです。

強制労働させられている身分にもかかわらず真剣に責任感を持って仕事に取り組む日本人にやがて現地のウズベク人は好意と尊敬の念を持ち始めます。

ウズベキスタン中央銀行副総裁のアブドマナポフ氏は子供の頃日本人が働く姿を見たことがあるそうです。

子供心にいつも疲れて帰ってくる日本人抑留者を見て同情した氏は友人と一緒に何度となく宿泊所の庭先に自家製のナンや果物を差し入れに行きました。

するとその数日後に必ず同じ場所にあるものが置かれていたそうです。

それは精巧に作られた手作りの木工玩具でした。

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強制労働で疲れ切った抑留者という身分であったにもかかわらず受けた恩に精一杯の謝意を表明しようとした日本人抑留者の行為はいつしか道徳的規範としてウズベク人の間で語り継がれるようになっていったそうです。

やがて、時は流れ・・

完成から20年後の1966年・・

タシュケントの街を未曾有の大地震が襲います。

マグネチュード8の巨大地震です。

この地震でタシュケントの建造物の約3分の2は崩壊しました。

周囲の建物が瓦礫の山になってしまったなかそれまでとまったく変わりなく凛として立つナヴォイ劇場をタシュケント住民は日本人への畏怖と敬意の念を持って見上げたそうです。

そして、ナヴォイ劇場は被災者の避難場所として多くの人命を救いました。

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そういう経緯もあってか 多くのウズベク人が 子供の頃母親から・・

「日本人のように勤勉でよく働く人間になりなさい」

と言われて育ったといいます。

また、ソ連時代、日本人墓地をつぶして更地にするようにと指令が出されたそうです。

ソ連政府は捕虜使役で劇場が作られたことを隠蔽したかったのです。

しかし、ウズベキスタンの人はその指令を無視します。

ここは日本人が眠っているのだからと墓地を荒らさずにきれいな状態で守ってくれました。

ウズベキスタン独立後、中山恭子特命全権大使がウズベキスタン政府に日本人墓地の整備をしたいとお願いしたそうです。

スルタノフ首相(当時)からは直ぐに答えが返ってきました。

「ウズベキスタンで亡くなった方のお墓なのだから、日本人墓地の整備は、日本との友好関係の証としてウズベキスタン政府が責任を持って行う。これまで出来ていなかったことは大変はずかしい。さっそく整備作業に取りかかります」

ウズベキスタンでも呼応するかのように、素晴らしい提案がありました。

コジン・トゥリャガノフタシケント市長(当時)からの、「建設中のタシケント市の中央公園を日本の桜で埋められないだろうか」という提案でした。

現在この公園は「さくら公園」と呼ばれているそうです・・

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今では、夏になるとナヴォイ劇場はタシュケントの若者たちのデートスポットとして賑わっています。

最後に麻生太郎氏が国会で紹介したウズベキスタン大統領だったカリモフ氏の言葉を紹介します。

私は子供の頃毎週末になると母親に日本人捕虜収容所に連れて行かれた。

母親が私に言った事はいつも同じだった。

『せがれよご覧、あの日本人の兵隊さんたちを。

ロシアの兵隊が見ていなくても働く。

人が見ていなくても働く。

お前も大きくなったら、必ず人が見てなくても働くような人間になれ。』

おかげで私は母親の言いつけを守って、大統領になれたのです。

現代の日本の若い人達に自分たちのご先祖様はすごいと誇りを持って欲しくてこの桜シリーズを始めました。

これにてチャカポコ♪の桜にまつわる話は終了です。

来年の花見は今までと少し違ったものになれば幸いです。

最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。(ほぼ当時の文章のママ)

・・おしまい・・

【参考ブログ】『チャカポコ♪の愛国戦闘詳報』

#桜 #ウズベキスタン #ナヴォイ劇場 #日本 #愛国心 #誇り #pokoblog

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