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歳をとり、幸先はどこに

本日、7月5日に誕生日を迎えて31歳になりましたいつも読んでくださる皆様、本当にありがとうございます。いただいたリアクションは日々の励みになり、何者でもないわたしがnoteを続けることへの最大最高の活力になっております。これからもどうぞよろしくお願いいたします。今回は備忘録と言うか、これから1年過ごす上での所信表明を書いていきたいと思います。

さすがに28歳くらいから誕生日への新鮮味は薄れてきているけど、人に祝われるのはやはりうれしい。この間は誕生日が近いまゆらとわたしを祝し、なべわたが2人への誕生日ケーキを用意してくれた。この2人は大学からの友人で今でも色んなことしてよく遊んでくれる。この誕生日ケーキは水樹奈々のライブBlu-rayを流しつつ、切り分けることなく行儀悪くスプーンでつついて食べた。最高に美味かった

こんなふうにうれしい気持ちを覚えるのもわりと最近になってからで、それまでは誕生日はおろか自分に対しての関心が”””無”””だったなと振り返って思うところ。もちろん自分に興味関心が無ければ当然他人に興味なんてあるはずもなく、他人から見たら上っ面だけの素っ気ない人間だと思われてたことだろう。

高校生~大学生初期の年頃がもっとも酷い有様だったように思える。部活でうまくいかなくても問題箇所を洗い出して修正しようとは思わなかったし(でもジョナ・ロム―のように強くなりたかった)、大学に私服で通うようになってもオシャレしようとはほとんど思わなかった(でも女の子にモテたかった)。しかし、無関心であれど「喜怒哀楽」はあった。「喜怒哀楽」の「喜」と「楽」だけが過剰に分泌されて「怒」と「哀」は極端に反応を示さない、といった具合にバランスが崩壊していた。

この頃をわたしは「人間感情無し期」ともいったりするんだけど、つまりは無知でアホだったわけだ。ちなみにこの性分は漸減を経てもなお25歳くらいまで改善しようすら思わなかったし、未だに完了してもいないので、今もうすでにこれを書くのを諦めたくなってる。本当はもっと事細かに当時の記憶を描写して31歳の自分からみた当時の自分の考察でもすればいっちょ前の記事に仕上がるのだろうが関心がなかったから思い出せないもたくさんあるのだ。これをどうにかしたい。

けっきょくのところ、わたしがこうして誰かの心を打つには心許ない文章力で毎週どうにかnoteを書いているのも、「自分を知りたい」という大きな動機があってこそだ。喪失した在るはずの記憶を呼び戻すために得体のしれない泥濘をかき回して、引き上げた拳をおそるおそる開いてみる___。

31歳、これからは己は二の次でもいいから他人を大切にしていきたい。わたしの決して多くはない友人たちをはじめ、読者の皆々様、わたしを付き合ってくれている人たちを大切できるようになりた。この半生振り返りはわたしがnoteを書いていたことの集大成となるに違いないし、その証左となるだろう。そのためにも、このルーティンワークは今後もしばらくはつづけてかなくてはいけない。31歳、所信表明はこんな感じ。これからもいっぱいがんばっていきます。

おしまい。

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