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ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第13回〕
三好達治

■架空の町で生まれた?

明治33年8月23日、大阪市東区南久宝寺町(現、中央区南久宝寺町)の生まれだが、自叙伝では西区西横堀町で生まれたと書いている。ところがこの町は、当時も今も実在しない。

尋常小学校時代は病弱で欠席しがちだったが、読書が好きで高山樗牛、夏目漱石、徳冨蘆花などを読み耽ったという。府立市岡中学校(現、市岡高校)へ進学すると俳句に夢中になり「ホトトギス」を購読した。

しかし家業の印刷業が傾いたため、中学を2年で中退した達治は、学費の要らない大阪陸軍地方幼年学校へ入る。その後、陸軍中央幼年学校本科を経て、大正9年に陸軍士官学校へと進む。典型的な職業軍人の道だったが、なんと入学した翌年に学校を脱走し、北海道にまで逃げて退校処分となる。

■朔太郎の妹に一目ぼれ

陸士を退校処分になった翌年、第三高等学校(現、京都大学)の文科丙類(フランス語必修)に入学してニーチェやツルゲーネフを読み耽り、さらに詩作も始める。一方、家業はついに破産して父親が失踪してしまう。またも学費滞納で中退かと思われたが、伯母の援助で卒業することができた。

東京帝国大学文学部仏文科に進んだ達治は、友人から梶井基次郎を紹介され、同人誌「青空」の第16号から参加する。このとき発表された「乳母車」という詩が詩壇へのデビュー作となり、梶井の療養先で知り合った萩原朔太郎に師事する。

このとき萩原に4人いた妹のうち23歳のアイに一目ぼれしてしまう。アイは2度の離婚歴があったが、27歳の達治は構わずプロポーズする。しかし萩原の両親は、大学を出たばかりの貧乏書生にすぎない達治を生活無能力者と見ており、結婚は叶わなかった。

三好達治の文学碑。大阪市中央公会堂のそばにある。

■離婚、そして再婚と破局

破談した後、達治は佐藤春夫の姪・智恵子と結婚する。仕事のほうもシャルル・ボードレールの散文詩集「巴里の憂鬱」を全翻訳したり、処女詩集「測量船」を刊行したりするほか、今も重版されている「新唐詩選」を中国文学者の吉川幸次郎と共著するなど精力的にこなしていた。

達治が41歳のとき、再々婚していたアイが夫と死別したことを知り、アイへの思いが再燃する。智恵子と離婚した達治はアイを夜通し説得して、ついに結婚するのである。2人は福井県へ移り住むが、気位が高く我儘なアイに田舎暮らしは刺激が少なく退屈だった。

たびたび不満を口にするアイを、達治は暴力で押さえつけたという。そのためアイは東京へ逃げ帰り、その後離婚している。この2人の関係を、朔太郎の娘・萩原葉子が「天上の花」という小説の題材にして昭和41年に新潮社から刊行された。

■作家活動に打ち込む

達治がつくった詩は1000篇を超えており、明治以降でこれほど多作の作家は達治のほかにいないといわれている。生涯を通して詩集の刊行や詩誌の創刊など精力的に取り組んだ詩人としての側面だけを見ると、正妻と別れてまで愛する人と結ばれ、挙句にDVで修羅場を演じた人物とは思えない。

昭和39年4月5日、心臓発作で死去。達治の甥が住職を務める本澄寺(高槻市)には、墓のほか境内に三好達治記念館が置かれている。

●三好達治文学碑:アクセス/地下鉄御堂筋線または京阪電車京阪本線・淀屋橋駅1番出口から徒歩3分。中之島公園内

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