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ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第14回(終)〕
与謝野晶子

■不倫がキッカケで歌壇デビュー?

与謝野晶子は明治11年12月7日、堺県和泉国第一大区甲斐町(現、大阪府堺市堺区甲斐町西1丁)にある老舗の和菓子屋「駿河屋」の三女として生まれた。

晶子の本名は「鳳しよう」といい、晶子の名は「しょう」から「晶」の字を当てたといわれている。

明治維新の影響で多くの商家がそうであったように、鳳家が営む駿河屋は経済的に困窮していた。そのせいで晶子の誕生は必ずしも祝福されたわけではなかったようだ。それでも幼いころから漢学塾に通い、琴や三味線も習い、兄の影響で小説も読んでいた。

堺市・宿院にある生家跡

堺市立堺女学校(現、大阪府立泉陽高等学校)に入学してからは古典に興味をもって、源氏物語なども読んだ。20歳ぐらいになると、実家の店番をしながらつくった和歌を投稿するようになったことが縁で浪華青年文学会に参加し、与謝野鉄幹と出会うのである。

明治33年頃の浜寺公園は大阪でも有数のリゾート地で、海岸沿いには大小の旅館が建ち並んでいた。そこで行われた歌会に参加したときに出会った鉄幹と不倫関係に陥り、翌年には家を出て鉄幹のいる東京へ移る。そして処女歌集「みだれ髪」を刊行。その後、鉄幹と正式に結婚し、なんと12人もの子をもうけている。

■君死にたまふことなかれ

晶子の作品の中でも、とりわけ有名なのが「君死にたまふことなかれ」だろう。明治37年9月「明星」に発表された詩である。

日露戦争のさなか陸軍の予備少尉として招集され、旅順攻防戦に参戦したとされる弟・鳳籌三郎を嘆いて書かれた。

しかし実際には籌三郎が所属する歩兵第8連隊は、この詩が読まれた頃には別の戦線に配置されており旅順の戦闘には加わっていない可能性が高いという。しかも籌三郎は無事に復員して、明治44年まで生存している。

この詩が有名になったせいで、晶子があたかも反体制主義とか反戦主義の歌人というイメージが強いようだが、必ずしも反戦家として一貫した主張をもっているわけではなかった。明治43年に発生した第6潜水艇沈没事故に際しては、事故死した兵士らを悼み、第1次大戦が起こると「いまは戦ふ時である」と歌い、大東亜戦争ではさながら戦争を美化したり鼓舞したりする歌をつくっている。

堺中央図書館前にある歌碑

■子孫は政界で活躍

作家、歌人、評論家と活躍の場を広げた晶子の業績と人生は、まさに波乱に富んでいて、今も多くのファンがいる。

昭和15年5月、脳出血により右半身不随となり2年後の5月に逝去。この世を去る半年ほど前から書き溜めた約90首におよぶ短歌の草稿を収録したノートが、2014年に発見されている。

余談ながら財務大臣、金融担当大臣、経済財政政策担当大臣などを歴任した与謝野馨の父親は鉄幹・晶子夫婦の次男であり、馨は直系の孫にあたる。晶子が亡くなったのは馨が3歳のときだった。

●与謝野晶子生家跡の碑:アクセス/阪堺電気軌道阪堺線・宿院駅から徒歩2分。/銅像:南海本線堺駅前/歌碑:阪堺電気軌道阪堺線・浜寺公園駅から徒歩3分。浜寺公園内。

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