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ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第7回〕
井原西鶴/直木三十五

■一昼夜に千句を詠んだ西鶴

江戸時代の初期に活躍した井原西鶴は、裕福な家に生まれたといわれているが、詳細は明らかでない。 

俳諧の道に入ったのは15歳頃で、談林派の西山宗因に師事した。

一昼夜かけてたくさんの句を詠む「矢数俳諧」に挑戦したときは、なんと1000句を詠む「独吟一日千句」を達成。これを機に「矢数俳諧」ブームが起こり、たびたび記録が更新されながら大いに盛り上がったという。

■浮世草子で流行作家に

西鶴の創作活動はやがて浮世草子へ移り、天和2年(1682)に刊行した「好色一代男」が大ヒットする。浮世草子とは、江戸前期から中期にかけて生まれた小説の形態のひとつで、西鶴はその創始者とされている。

西鶴が残した最高傑作といえば「世間胸算用」を挙げる人が多いのではないだろうか。この作品は、ある年の大晦日に焦点を絞って、町人大衆の生活場面を切り取り、悲喜こもごもの人間模様を描いた傑作である。

シティプラザ大阪と東横堀川の間にある西鶴の文学碑は、植え込みに囲まれて見えづらく、うっかり通り過ぎてしまいそうだ。

碑文にはいわゆる「町人物」と呼ばれたジャンルの代表作で貞享5年(1688)に刊行された「日本永代蔵」(にっぽんえいたいぐら)の一節が刻まれている。

西鶴文学碑

●西鶴文学碑:アクセス/地下鉄堺筋線または中央線「堺筋本町」駅下車、13番出口から徒歩5分

■初めは「三十一」だった!?

直木三十五の名を「みそご」と読まれることがあるけれど、正しくは「さんじゅうご」である。

三十五は明治24年2月12日、大阪市南区(現、中央区)生まれ。早稲田大学に進学するまで大阪で過ごしている。

大正12年、「文芸春秋」の発刊に加わったのを機に文筆活動を始めた。本名は「植村宗一」。「植」の字を分解して「直木」としたのがペンネームの由来で、しかも文筆活動を始めた歳が三十一だから、最初のペンネームを「直木三十一」とした。

以後、歳を重ねるごとに「三十二」「三十三」……と名を変えた。それを菊池寛から「歳とともに名を変えるのはやめろ」と忠告されて「三十五」で止めたと伝わっているが、真偽は定かでない。

■監督した映画は大コケ!?

マキノ・プロダクションを主宰するマキノ省三宅に居候していた大正14年、制作集団「聯合映畫藝術家協會」を結成。関東大震災に遭って大阪へ引き揚げてからは月刊誌「苦楽」に仇討ちものを次々に発表し、翌年には「大衆文芸」の創刊に参加した。

昭和2年には、マキノ省三に出資させて映画を何本か制作してみたが、どれも不人気で赤字に終わっている。

昭和4年、新聞連載された「南国太平記」で人気作家となったものの、栄光の期間は短かった。昭和9年、結核性脳膜炎により43歳の若さでこの世を去る。翌年、功績をたたえて「直木三十五賞(直木賞)」が設けられた。

生誕地の中央区には文学碑のほか、直木三十五記念館(複合文化施設「萌」内)がある。

直木三十五文学碑

●直木三十五文学碑:アクセス/地下鉄長堀鶴見緑地線「松屋町」駅下車5番出口から徒歩2分。安堂寺町二丁目、榎大明神横

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