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ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

〔第7回〕
逢坂

■七坂で唯一の国道
天王寺七坂のうち最も南にあり、逢坂と書いて「おおさか」と読む。
逢坂は「逢坂の関」に由来する説、聖徳太子と物部守屋が仏法について討論した合法四会に由来する説などがあり、逢坂のほか「合坂」「相坂」と表記する文献もある。

逢坂は、一心寺の北を東西に走る国道25号線そのものであり、ほかの坂のように寺院に挟まれた石畳や石段といった風情はない。

平安時代には、坂の上り口にあたる天王寺公園北口交差点のあたりまで海が迫っていた。当時は馬車馬でも音を上げるほど急な坂で、荷物を担いだ人を後ろから押してくれる「押し屋」という商売があったという。また道幅が狭く、事故多発地点だったとも伝えられている。

現在のようになだらかな坂になったのは、明治9年に茶臼山観音寺の住職が寄付を募って、坂を切り崩す工事を行ったからである。そして明治の末期には、市電を通すために道幅を広げる工事が行われて、ほぼ現在の形になった。

■四天王寺へ通じる道
逢坂を上って一心寺前の三叉路を右へ行くと一心寺、左へ行くと四天王寺西門へ通じている。
四天王寺は1400年以上も前、西暦593年に建立された聖徳太子ゆかりの寺院として有名だ。

「日本書紀」によると、物部守屋と蘇我馬子が争ったとき、蘇我氏についた聖徳太子は形勢不利を打開するべく四天王像を彫った。そして「この戦に勝利したら寺院を建立して四天王寺像を安置し、この世のすべての人々を救済する」と誓願された。果たして戦は蘇我氏が勝利したので、聖徳太子は誓いどおり寺院を建立したのである。

「四天王寺式伽藍配置」と呼ばれる配置はわが国で最も古い建築様式のひとつで、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線上に並べ、それを回廊が囲んでいる。
度重なる戦火や災害により多くが失われたり再建されたりしたが、現在の姿は飛鳥時代に創建された当時の様式がほぼ忠実に再現されている。

境内の総面積は、約11万平方メートル。甲子園球場がほぼ3個入る広さに四天王寺式伽藍、聖徳太子の御霊を祀る聖霊院(太子殿)のほか、創建当時から伝わる国宝や重要文化財を所蔵する宝物館がある。

■余談・「大阪」の由来
逢坂の読みが「おおさか」であることから「大阪」の由来と誤解されることがある。筆者も小学校時代に、担任教師からそのように教わったために永らく誤解していた。

「大阪」はその昔「大坂」と表記され、地名が登場する最古の文献は室町時代に蓮如上人によって著された『御文章』で、その中に「攝州東成郡生玉之庄内大坂」とある。読み方は「おおざか」だった。

それが明治に入って「坂」を「阪」に変えられてからは「おおさか」が定着した。ただ、戦国時代以前には「小坂」とか「尾坂」と書かれた文書もあるので「大きな坂」ではなく、「オ(オホ)」は接頭語で、傾斜地を示す「サカ」の意味が強いと考えられている。
●逢坂:大阪市浪速区下寺3-16-8/距離:358m・高低差:19m・平均斜度2.1度

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