ひい爺さんが狙撃手で熊撃ちのこと

昔、母の爺さん、つまりひい爺さんは、日露戦争で狙撃手をやっていた。

ラッパ手を元はやっていたのだが、徴兵されて銃の才能が開花したのか、狙撃手になった。
「ロタ公(ロシア兵の蔑称)はバカだぁ」が彼の口癖で、何度殺しても同じ場所から出て来るので、馬鹿としか思えなかったと。何人倒すのも簡単だったと。
倒したロシア兵が、日本兵から奪った腕時計をいくつも付けているのを見て、この野郎と思って取り戻したそうな。
勲章はいくつか貰ったらしく、幼少期の母は、たまに磨いていた様子を見ていた。

日露戦争が終わると、普通の社会にあまり溶け込めなかったこともあり(そりゃそうだ)、猟師になる。
と言っても、「ひとりでやる」猟師で、他人と組むことはなかった。他の猟師と組むと、危なっかしくてたまらないと。
熊はやはり、1発で仕留める必要があったらしく、相当の距離まで近づいて、外さない距離(数メートルだったらしい、風下)で1発で倒したと。
まず小熊を仕留め、母熊も倒し、橇で持ち帰ったらしい(小熊がかわいそうだからと語る)。

母のランドセルは、熊の右手(右手の方が熊は高い)で買ったものだった。
母が胃弱の時は、一番重要な熊の胆(くまのい)をくれたそうで、ピタリと治ったそうな。

非常に眼が良く、雪原の白い貂(テン、悪賢い)や白兎も、ヘッドショットで倒したらしい。毛皮の売れ高が違うのだ。

山に入る前は、甘納豆の固めて揚げたものなど、「小さくて高たんぱく」なものを作り、子犬の頃から熊の臭いに慣れさせた犬たち(熊の油をつけた手で、餌をやる)とともに、二週間ぐらい籠ったらしい。

ひい爺さんはよく、「レミントンが欲しい」と呟いていた。

以上、母の伝聞ですが、私のひい爺さんでした。

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