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どこに居たって、同じこと。

子供の頃からなぜか、ここじゃない、ここは合わない、私の居場所はきっと他のどこかにあるはず、そんな感覚がいつもありました。

日本に居れば海外に出たがり、アメリカに居れば日本に帰りたがり、東京に居れば大阪に行きたがり、大阪に居れば茨城に帰りたがり。

そんな風に感じているから、気付けばいつもその時々を耐えるように、いつの日かそのどこかにたどり着くことを願うように、過ごすようになりました。

今、私が満たされていないのは、誰かの、何かの、せいにして。



でも、21歳の頃かな、アメリカでシェアしていた一軒家の大きなベッドの上で、ふと分かりました。

「今、私は、日本に帰ればこの寂しさや不安は埋められると思ってる。そう信じて、その時を待って、今を耐えてる。でもきっと、どこに居たって同じことだ。私が変わらない限り、どこに居たって変わらない。」

その時は、そう気づくことは出来ても、だからってどうしたらいいのか分からなかった。

だから、その後の人生でもいつも、きっとどこかにあるはずの場所や、きっとどこかに居るはずの人を求めて、そんな幻想の何かに私の心の穴を埋めてもらおうとして生きてきたんだと思う。

ここ数年、じゃあどうしたら自分で自分を満たすことが出来るのか、自分で自分の機嫌を取ることが出来るのかを考えながら、“今”を生きることを意識するようになりました。

未来や、どこかじゃなくて、今、ここを楽しむ。

それでもうまくいく時とそうじゃない時があって、今でも自分のもやもややイライラや寂しさなんかを、誰かの、何かのせいにしてしまいそうになることもある。

その度に、あの21歳の私が、ベッドの上で気付くのです。呟くのです。

「どこに居たって同じこと。」



人生が生きやすくなるヒントは、こんな風に過去から今までのそこかしこに散らばっていて、でもその時の人生経験ではまだそれを持て余してしまったりもする。

だけどちゃんと、こうやって、小説や映画の伏線を回収するかのように、繋がっていく。

そして、あの時の私が、未来で、そういうことか!と納得してくれたりもする。

アメリカに住んでいた頃の私は、やっぱり孤独を感じていて、時間もたっぷりあったから、今聞いても感動してしまうような、私なりの哲学をたくさん持っていた。

極端にネガティブだったり、悲観的だったり、自虐的だったりもしていたけれど、私の叫びでありSOSだったんだろうなと思う。

その頃の私が抱いていた人生に対する問いに、大人になった私が少しずつでも答えていってあげられたらいいな。

(とかかっこよさげなことを言いつつ、お腹がはち切れるくらいハヤシライスを食べてソファでだらしな、いえ、ご満悦な21歳の私はこちらです↓)

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