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私の中のあの人

何度も何度も、夢に出てきたり、日常のふとした瞬間に思い出したりして、もう話すことも会うこともほとんどないのに、私の中から消えない人たちがいる。

それが嬉しいことならばきっとこんな風な書き出しにはならないと思う。

現実には何も起こってないのに、夢で見ただけでも、実際にその人との間に新たに何かがあったかのような後味。

そしてその残像を度々思い出してはう〜ん…と悶えたり考えたりする。

もう一度言おう。

現実には何も起こってないのに!

私はその人たちを私の中で飼っている、と思うようになった。

その人たちとのあれこれで感じることはさまざまだけれど、そのさまざまを無視するのではなく、なぜ何度も感じようとするのか、なぜ手放さないのかに思いを馳せる。

執着、とも呼べると思う。

その人たち自体に執着しているわけではなくて、その人たちとのあれこれを通して感じるものを何度も何度も経験しようとしているのだとしたら。

決して嬉しい感情ではないのにどうして?

私は何に執着しているのか、どうしてその感情を何度も味わおうとしてしまうのか、そこがクリアにならないと、きっとその人たちは私の中に居続ける。

違う、私はその人たちをずっと飼い続ける。

もしくは新たな現実の人物として出現して、同じような体験を何度も繰り返す。

先にも書いた通り、考えるべきはその人たちとの関係そのものではなく、私がどんな感情を求めてしまっているのかということ。

「どうせ私なんて」
「きっと認めてもらえない」
「好きでいてもらえない」
「分かってもらえない」

私の場合、このあたりを感じさせられるような経験を色濃く覚えていて、全然こんなこと思いたくないのに、何度も追体験するのだ。

それは、私自身が自分に対してそう思っているから、かもしれない。

そう思い込まないとやってられなかった、生きてこられなかった、ということ。

これらの観念に私は守られてきたのだ。

でも、もう、いらない!

これまでありがとう!

手放すべきはこれらの不要になった観念である。

不思議なもので、子供の頃から共に過ごしてきた観念ちゃんたちに、どこか別れ難さを感じているのだと思う。

この子たちがいなくなって、私を守ってくれていた、いわば予防線が無くなったら、と思うと不安なのだ。

何かが起こった時「あーやっぱりね。」と思いたいのだ。

だから勇気が要る。

執着を手放そう!とか
過去は過去!今を生きよう!とか

そりゃそうなんだけど、そこだけ理解して実行しようとしてもたぶん無理。

だって全てのおおもとは、何があっても私は私、誰の評価にも揺らがず自分を愛する!と決めることだから。

それが少しずつ出来てきて、自分との信頼関係が持ててやっと、傷つかないための予防線を張る必要がなくなるんだと思う。

最近、次から次へと、苦しかった頃に関わっていた人たちが夢の中や日常のふとした瞬間に顔を出す。

そして当時の苦さやどうしようもなさを再び体感しては、少しは強くなったはずの私があの頃の私に引き戻されそうになる。

大丈夫、変わろうとしているからこそ、だ。

例えば整体に行って必ず先生に言われるのが、「今整ったけど、人間の体はまたすぐに元に戻ろうとするから、しばらく通ってね」と。

だから、何度も何度も、それこそ何年もかかるかもしれないけれど、自分の観念を、心を、頭を、自分で整体してあげるのだ。

成果を感じるまでになかなか至らなかったとしても、これを知っていて、実行しようとしているだけで、すでに救われているあなたがいる。私がいる。

私の中のあの人は、より心地よく生きるためのヒントを与え続けてくれている。

感謝して、大きく手を振って笑顔でさよなら出来れば、きっとまた新たな美しい関係に進めると信じて。

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