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夜記・老狂女

大通り沿いのマンションの前で妻と待ち合わせをしていた。
1階に応接スペースみたいなものがあり、その部分がガラス張りになっている洒落たマンションだった。
そのガラスに寄りかかって文庫本を読みながら妻を待っていた。
マンションの管理人らしき人が出て来てエントランスのモップ掛けをはじめた。
マンションのガラスに寄りかかっていたので何か言われるかな、と思ったが特に何も言われなかった。管理人とはまだ3mほど離れていたので、こちらの方まで掃除に来るようだったら場所を変えればいいかな、と思った。
マンションの前が信号で、横断歩道がある。
ほどなくして道路の向う側に妻の姿が見えた。
軽く手を上げるとそれにこたえて妻も手を上げたが、その時一人の中年女性が妻に声をかけるのが見えた。
「あらー」という高い声が聞こえた。
誰か知り合いに声をかけられたらしい。
信号は青なのに立ち止まってなにやら話し込んでいる。
やれやれ、ちょっと時間がかかるかな、と思って文庫本に目を戻そうとした時、自分のすぐ隣に人がいるのに気が付いた。
自分と管理人の間に、とても小柄な老女がマンションの中を覗き込むような格好で立っていた。
ごわごわした長い髪の毛、なにやらフリフリしたものの付いたピンク色の薄汚れたワンピース。
もともとそんなに背が高くないのにひどく腰が曲がっているので1mくらいしかないように見える。
右手でついた杖で体を支えるようにして立って、何かぶつぶつ言っている。
何を言っているのかわからないが、「お前らが」と言う言葉と「覚せい剤」と言う言葉だけが聞き取れた。
ああ、なんかおかしな人なんだな、と思い、マンションの管理人の方を見るとまったく反応せずモップ掛けを続けている。
するとその老女はマンションのガラスにガンガンと頭をぶつけ始めた。
さすがにこれは管理人が止めるだろうと思ったが、相変わらず管理人は反応しない。
大丈夫なのかな、と思って管理人の様子を伺っていると、管理人はちらっとこちらを見て、すぐまた掃除に戻った。
その女にはかまうな、ということなのだろうか。
小柄な老女なので特に怖いとは思わなかったが、ちょっと気味が悪い。
場所を移動しようかな、と思った時、その老女が急にこちらを向いて、まっすぐに私の目を見て、

「もっと悪くなるよ」

と言った。
不思議とまともな、理性的な表情だったのが印象的だった。

「ごめんごめん」と妻の声がした。
「山崎さんにつかまっちゃって」
妻の顔を見て、また老女の方に視線を戻したが、老女はいなくなっていた。
目を離したのは一瞬だったので、どこかに行ける時間は無かったはずだった。

「どうしたの」
と妻が言った。
「いや、ここに居た人・・・」
「管理人さん?」
「いやすぐそこに・・・」

妻の話では、山崎さんと話しながらチラチラとこちらの方を見ていたが、私と管理人の間には誰もいなかったという。

目が覚めて気になったのは、老女よりも妻の事だった。
私は結婚していないので妻はいないのだが、あの妻の声も顔もよく知っている、という気がした。誰か非常に近しい存在だと感じた。
しかしどんな声、どんな顔だったか、どうしても思い出せない。

あの老女の声と顔ははっきりと思い出すことができるのだが。

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