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夜記・新幹線

石田課長と喫茶店で待ち合わせをしている。

しかしなんで石田課長と会うことになったのかわからない。
もう何年も前に辞めた会社の上司で、別にプライベートの付き合いは全くなかったし、退職した後は一度も会っていない。
何の用があるのかわからないが石田課長と喫茶店で待ち合わせをしている。

チリンチリンと喫茶店の扉が開いた音がして、やがて石田課長が自分の向かいに座った。
お久しぶりです、と言うと「いやあ、もう夏だねえ、溶けちゃいそうだよ」と言って石田課長は笑った。
石田課長の顔を見て、あまり変わってないな、と思った。
目の下のたるみが若干目立つようになったくらいか。
頻りにハンカチで額をぬぐいながら石田課長は店員にアイスコーヒーを注文し、「もうコロナは終わりだなんて言うのもいるけど、新幹線はまだガラ空きだよ、前と比べればね」と言う。
そうか石田課長は今朝名古屋から来たんだっけ、と思って顔を見ると、目の下のたるみが異常に垂れ下がっているのに気が付いた。
目の下のたるみだけではない、顔全体がだらっと垂れ下がっている。
ハンカチで汗をぬぐいながら、そのぬぐっている顔がだらだらと下に垂れていき、目の前の石田課長の体全体がぐにゃっとして、背広の形が崩れてゆっくりとテーブルの向う側に沈み込んでいくように見えた。
溶けているのだ。
怖くなって、伝票をつかむとそのテーブルから逃げ出した。
新幹線の通路を早足でレジへと歩く。
進行方向と反対側に歩いていくので乗客がみなこちらを向いている。
みんなに見られているような気がして、いや違うんです、ぼくは関係ないんです、ちゃんとこれからお金を払います、と口の中でぶつぶつ言いながら早足で歩いていく。
車両の後ろまでたどり着き、自動ドアを通り過ぎたが、そこにはレジが見あたらなかった。
トイレしかない。
どこでお金を払えばいいのか。
そうだ、この車両にはトイレがあるのだから、次の車両にレジがあるのだろう。
そう思って次の車両に入った。

新幹線がガラ空きだなんて嘘ばっかりだった。
すべての座席が乗客で埋まっていた。
そして全員がこちらを見ている。

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