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夜記・家守

由美子がやっと医者に診てもらうことに同意してくれたので予約を取ってクリニックに向かっていた。
中野通りを中野駅の方に歩いている。
いつ由美子の気が変わるかもしれないので気が気ではない。
中野通りの歩道は随分混みあっていた。
なにか思いもよらない刺激を受けるとまた叫び出して、どこかに走り去ってしまうだろう。
「大丈夫?」などと訊くと機嫌を悪くするので、様子を見ながら、黙って並んで歩いている。
早稲田通りを渡って少し行ったあたりで、右手に見えてきた中野サンプラザのビルの上の方に一匹の家守が張り付いているのに気が付いた。
あんなに上の方なのにあんなに大きく見えるのだから、ずいぶん大きな家守に違いない。
人間よりもずっと大きいだろう。
ここら辺の民家の壁などには時々家守が張り付いているのを見ることはあったので、家守自体はそれほど珍しいわけでもなかったが、あそこまで大きな家守は初めて見た。
あんなものに気が付いてしまったら、由美子がどうなってしまうかわからない。
どうか気づきませんようにと思いながら由美子の隣を歩く。
由美子はうつむいて歩いていたのでサンプラザの方を見上げることはなさそうに思えたが、この人ごみの中で誰か一人でもあの家守を見つけて騒ぎ出したらもうおしまいだ。
どうか誰も気づきませんように、と思いつつちらちらと家守の方を見ていると、家守がするすると動いて、中野サンプラザのビルの向う側、こちらからは見えない側に行ってしまった。
ああ良かった、もう大丈夫だ、と思って由美子の方に視線を戻すと、由美子も顔を上げてサンプラザの方を見上げていた。
しまった、と思ったがもう遅い。
由美子が口をゆっくりと開き、長い長い悲鳴を上げ始めた。

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