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こんな日に虹を撮る


今日は、朝から霧雨が降っていた。音もなく、風にさらさら流れてしまうような雨。傘を差す意味がまるでないような、あの雨。

娘が窓に張りついてはしゃいでいたので見に行くと、虹が出ていた。

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しかも、うっすらと二重。アーチも最後までしっかり見える。ここまではっきりしたものは久しぶりに見たので、ラッキーだと思った。

この窓からは、空がさまざまな色に染まるのを大きく臨める。だから毎日、特にだいたい陽の落ちかけたころにこの場所で、あたたかい飲み物を飲みながら気持ちをゆるませるのが大好きだ。

けれども、今日はまた信じたくないことが起きてしまった。

テレビ、ラジオ、SNS。目に見えるもの耳で聴くものから、その情報が容赦なく入ってくる。「まただ」と咄嗟に感じ、逃げ出したくなった。

たとえば耐え難いことに遭遇したとき、道を切り拓く方法には人それぞれ方法があると思う。

「そのことを考えないようにする人」「誰かにとことん相談してみる人」「落ちるところまで落ち、あとは這い上がるだけのところまで自分を持っていく人」、エトセトラ。どれも正解だと思うけれど、私はたぶん「一旦落ちるところまで落ちる人」だ。

でも、分かる。今日のようなときに限っては、情報をするする撫でるようにして落ちるところまで落ちてはいけない。元いた時点まで、這い上がってこれる保証がないからだ。
 
だから、家で得られる好きなものにたくさん触れた。


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お気に入りのドライフラワー。
 

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お土産に貰った、カラフルな飴。
 

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差しこむ光の反射が幻想的なガラス。
 

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はじめとは反対の方角から出現した、新たな虹。
撮って、撮って、とにかく撮った。 

なんでも虹は、雨上がりにできるのだそう。それを裏付けるかのように霧雨はいつのまにか上がっていたし、秋を象徴するような高い青空が、みるみるうちに広がった。「保育園で水あそびをしたときにシャワーの中で見えた虹とおんなじ」と、娘がくるくる笑っている。

悲しい情報を食べたり飲んだりして重たく沈んでしまうのは、なるべくよそうと思った。
 
それは目を背けたいからとは逆で、記憶に刻むため。突然終わりがやってきてしまった物語に、そっとしおりを挟んで覚えておく。

悲しみが連鎖すると、どうしてもつらい。自分のことのように、なんて浅はかな言葉は到底言えないけれど、胸がえぐられるように悲しい。
 
けれども、暮らしにはきっと星屑みたいな小さなしあわせが無数にあって、それは頭の上だったり、足元だったりに隠れている。しかも時折、形のない、目に見えないものだったりする。 

だからこそ、悲しみの波間であっても目を開けて、耳を澄まして、手で触って、言葉を交わさなければと思った。

「しあわせが見つからなければ一から作ってみませんか」のひとことに、「簡単にできたら苦労しないだろ」と呆れたり、傷付く人もいるだろう。人の訃報まで話のつぼみにしているようで不謹慎だ、と思われるかもしれない。紙の端くれにでも書いておきなよ、と言われるかもしれない。
 
でも、「私が感じる」ということは「誰かも感じている」ということだ。この状況の相次ぐ悲報に、沈んでしまいそうなくらいやるせなさを感じている人が、必ずどこかにいる。

そのうちのたったひとりにでも、この文章がどうか届いてくれたらと思う。  
 
なんて言えたらかっこいいけれど、この文章は、やるせない気持ちを払拭したいがための私の自己防衛かもしれない、と思った。

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切羽詰まったとき危うく忘れかけるけれど、しあわせは、確かに、きちんと、いたるところにある。

忘れたくない。いたるところに、だ。 


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