パームツリー③

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その日、相模原漁港は荒波だった。

岩壁に絡み付くような高い波が暗い光を放ちながら闇に弾けていた。弾け飛んだ水の多くはそのまま海の底に消えていったが、岩に細かく刻まれた僅かな水滴はカズオ・リーの頬を霧雨のように濡らした。リーはイカ釣り漁師である。

夥しい数の灯を載せたイカ釣り漁船の点検は終わったものの、やはり波の荒さからその夜の漁は中止となった。漁労長が疲れた瞼を開け閉めしながら作業中止の号令をかけた。波が人を食う前に彼らは一目散に家に帰って、夜明け前の一眠りをしようと考えた。ただ、カズオ・リーに限っては麝香の甘ったるい香りに包まれた寝室でまどろむ前、やはり波の音を聴きたくなって身を起こした。趣味が高じてリフォームをした彼の寝室、その防音室は波の音はおろか、扉の前で鳴き声を上げる愛猫のシャムの存在さえも彼の前から消してしまうのだ。

リーは寝室を抜け出しシャムを撫でたあと、戸外の波の音を耳に迎え入れた。濡れた頬をスウェットの袖で拭った。波は先ほど漁船の点検をしていた時より高さを増したようで、寄せつ離れつを繰り返しながら不穏な闇を深く彩っている。リーはイカ釣り漁師でありながら占い師でもある。この闇の中でなぜか「幸福を生む何かを占いたい」という気持ちを抱いていた。それはリーが幸福な気持ちであるからではなく、限りなく広がる暗い海の唸りに怯えていたからである。

カズオ・リーは、ポケットの中からぼろぼろと樹脂がこぼれ落ちるような古い木の実を取り出して頭上に掲げ始めた。それが占いを行う前のリーのお決まりの挙動だった。こぼれた木の実の一部が黒く艶のある髪の上に降りかかる。目を閉じる。彼の聴覚から波の音は消えた。水滴が一粒一粒水面に落ち込んでいく音のみが、リーの脳内を満たしていった。横隔膜が下がり、気持ちが落ち着いてくる。怯えが徐々に解決されていく。リーは満足だった。 

ただ、そんな良い気分も長くは続かなかった。次の瞬間には暗闇に溶け込むような大きな艦隊めいたものが漁船の連なる船着場に激突したからだ。
巨大なダイオウイカがその正体だった。

高波とともにカズオ・リーを攫って胃袋に収めてしまったダイオウイカは、眠りの底に深く沈む港町をさらに飲み込んでいく。支柱も屋根瓦も電動ピアノも高級ソファも石畳も軽自動車も、全てがイカの胃を満たしていった。ダイオウイカが過ぎ去った後の町はもはや町とは分からないほど地面が深く抉れ、生まれたままの大地に戻ろうというような残酷な表情を見せた。

艦隊めいた巨大なダイオウイカは町を飲み込みながら北上して行った。目指す場所はイカにとっての集魚灯、暗闇の小さな港町に一箇所燦然と輝く寂れた繁華街・日御碕(ひのみさき)であった。日御碕は今日も夜明け前のぬるさを伴いながら、眠りから本能活動を守るべく対抗していた。色街は紫色であった。

瓦礫と化した家々をイカが飲み込んでいく凄まじい音は、極彩色に踊るダンスホールに届くはずもなく、年代モノのバーテーブルに載ったワイングラスを揺らすだけで、それは大柄な漁師たちの踊りがもたらす盛大な揺れと何ら相違なかった。

したがって色街は、人々の眠りを削り取っていくダイオウイカに気づくことなく二度と明けない夜の中で狂っていた。

・・・

さらに餅のように粘り気を増し、混乱極まる有線イヤホンを両手でこねくり回している彼は、町一つを一晩で裸の大地に変えた、そんな化け物めいたダイオウイカに丸腰どころか両手を拘束されたこの上なく脆弱な態度で対峙しているのであった。

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(つづく)

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眠れない夜に

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