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ご実家は大丈夫でしたか?

3.11である。
一応、このことを記しておかなければ、と思うので、書いておく。

出身は福島です。

誰かと出会うたびに、出身の話になると、そう答える。
すると、東北意外の方の場合はほぼ9割方「ご実家は震災で大丈夫でしたか?」と返ってくる。この時、なんとも言えない、不愉快な気持ちになる。

申し訳ないけれど、本当に、「こいつもか。」と思ってしまう。

ごめんなさいね、ここだけは、そうなんです。
それ以外のところでは、どなたと出会っても、楽しいし、嬉しいんだけど。

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何をもって、大丈夫なんですか?

まず第一の不愉快さは、これである。
大丈夫とは?命があることでしょうか?
家屋が崩壊していないことでしょうか?
怪我しなかったことでしょうか?
それとも、放射能についてのあれこれを心配した、その精神的な経済的なエネルギーの消耗も、大丈夫かどうかの基準になるのでしょうか?
避難地区になっていない地域にあって、その近所にどんどん避難してきた方々がどんどん豪邸を建てていて、昔からの地域の人間関係が様変わりしたことは、大丈夫の基準になるのでしょうか?

もちろん、命があるから、大丈夫と言える。
家屋は崩壊していないから、大丈夫と言える。
私は東京にいたけれど、福島に当時住んでいた家族は怪我しなかったから、大丈夫と言える。

でも、精神的に考えて、悩んで、自主避難をしたり、わざわざ遠くのお野菜を取り寄せたりしていた母親の姿は、大丈夫じゃなかった気がする。
今でも、放射能の線量が少しでも少なくなる対処法をしながら、福島に住み続けている。その日々の気遣い、不安をベースにした生き方はとても大変そうで、大丈夫だと言えるかは怪しい。

近所にできた数々の新しい家は美しいけれど、地域の人間関係には、もともと住んでいた人たちと、新しく避難してきて住んでいる人たちに分かれて、溝ができたように感じる。それは、社会的な心地よさという意味において、大丈夫じゃない気がする。

そうゆうことを、大丈夫ですか?と聴く人に対して、細かく話す気には、私はなれない。

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あなたは、大丈夫なんですか?

あなたの暮らしは、大丈夫なんですか?
「私は福島出身じゃなかったから、その目に合わなかったから、当事者ではない」
そんな、当事者じゃない意識を持っている人だけが、「大丈夫ですか?」と聞いてくる気がする。

あなたの暮らしは、本当に大丈夫ですか?
あなたは、本当に、大丈夫なんですか?
あなたの暮らしの基盤は、揺るぎないものですか?
あなたの食べているものは、本当に大丈夫なんですか?
あなたは、永遠に、「大丈夫な側」にいると思っているんですか?

喉元過ぎたら、もとどおりの、東京に住んでいると
本当に辟易してしまって、つい思い余って二年前は大掛かりなイベントを主催してしまった。

でも、結局、当事者意識があるのか、そうじゃないのか、と言う根本にある違和感のシェアまでは、私はたどり着けなかった。

わざわざ福島からゲストにも来てもらったけれど、意識が違うなあということを確認するために、来てもらったようなところもあった気がする。

生きることへの主体性を削ぎ落とされて行く都市システム

現代に生きていると、黙っていても、目の前にレールが轢かれて、そこを滑るように人生が進んで行く感覚がある。

経済的な恩恵を受け取るために、福島で原発のお仕事をすることになった人たちだってそうだし
東京で、その電力を使って便利な生活をしている私たちだってそうだし
スーパーで並んでいる野菜の中から、なんだかつやつやして美味しそうに見える、季節外れのトマトを手に取る時だってそうだし
子供を産めば、やれ赤ちゃんグッツが必要だ、やれ保育園だ、やれ幼稚園だ、やれ幼児教育だと、やれ学資保険だと、次々と「当然やること、進むべきこと、消費すること」が提示されるのも、そうだ。

そうゆう外側からの情報を無選別に受け入れて、間に受けて、取り入れて行くうちに、内側にある感覚というものは、どんどん閉ざして行き、「本当に心地よいものが何か?」を忘れたままに、生きていくことができたのが、平成までの時代だったのだろうと思う。まあ、人によってはこれから先もそうなのかもしれない。

その結果が、震災後の福島も含めた、人々の右往左往であり、
喉元過ぎたら「大丈夫ですか?」としらっと聞ける鈍感な感性を育んでいるんだと思っている。

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性は、命の根っこに向き合うことだから。

私は今、性のことを発信しているけれど、それと、この「大丈夫ですか?」への違和感と、性のことに向き合う原動力は、根本では一緒のことだと思っている。

違和感をはじめとした、感覚を研ぎ澄ます練習の入り口になるのが、性的なことだと思っている。

誰と、いつ、どんな風に、どんな心地よさや、関係を追求したいのか?
と、改めて自分に問うこと。
心地よい、と言うのは、安心感であって、
その感覚は、「このまま生きていける。」と自分の細胞に許可を出してくれる。

今は、セ ックスも消費材になっていて
つまり、生きる。の根っこが商品になっている。

その商品の流通が激しく行われること、市場が大きいことと、
私たちの生き方が、感覚を閉ざしたままでも生きていけるシステムに乗っていることは、鶏と卵の関係にあると思っている。

私たちが、日の当たる場所で、自分の感覚よりも外側の情報やシステム、「そうゆうものだから」に迎合して生きるほどに、その仕組みを無意識に受け入れるほどに、

閉ざされた感覚が、行き場のないエネルギーが、日の当たらない市場でやりとりされて、拡大されて行く。

そんな感覚が、ある。

いのちを本当に守りたいなら、攻めの心地よさを獲得しよう

もう命をないがしろにするような仕組みをそのままにしてはおけなくて。
だからと行って、何かイベント的にデモをするのが得策ではないように感じる。

だから、今はコツコツと書いていきたい。

性のことに向き合うことは、
自分の体と心を使って、もう一度、
自分を生きる練習をすることだと思っている。

もういい加減、振り回されて、型にはめられて、それを裏切られて、そしてその責任を誰もとってくれないと嘆くようなことはしたくないし、誰にもそんな目に合って欲しくない。

だからこそ、生きる感覚、生きている感覚を大切にする営みを、性はもちろん、食でもいいし、衣でもいいし、住でもいいから、もう一度、見直していきたい。

まとまらないけれど、今年の3.11に寄せて。
もう日付変わっちゃったけど。

(花の写真は全て、2015年の福島市。海の写真は同年、原発のない国、ニュージーランド)

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