“3285の回想”【2014年後半】
ちくさ座ホール初ワンマン
学生でもない
サラリーマンでもない
肩書き“バンドマン”として初めての夏を迎えた。
といっても生活はギリギリだし
僕に至っては営業マン時代の所得税がドカン!
と来るのでヒーヒーの時期だった。
(※脱サラを考えてる人は気をつけるべし)
それでも
音楽で食っていくために脱サラしたから
アルバイトする余裕もなくスケジュールを組んで活動していた。
セルフマネジメントだから僕が代表になって
曲を書きながら、スタジオも毎日入りながら、
請求書書いて、送って、交渉して、スケジュール管理して、振り込みしたりしてた。
Web周りは、2018年頃まで僕らのマネージャーをやってくれていた齋藤さんに助けれてもらっていた。
でも、営業マンやっていたからか、これらの事務作業も楽しんでやっていたかな。
(ギャラ交渉は嫌だった)
そんな日々の中
僕らは4月のクアトロワンマン後も活動のペースは落とすことなく、次の大きな目標に向かっていた。
次は
名古屋ちくさ座ホール(千種文化小劇場)での初のホールワンマンライブ。
ライブハウスで育ってきたQaijffだけど
お客さんが着席したホールワンマンは結成当初からイメージしていたんだ。
“いつかやりたいね”ってよく話してた。
ストリングスを始めとするオーケストラを携えてのライヴも同様で。
あと森のピアノ演奏が本領発揮するのは生ピアノだから、生ピアノでワンマンしたいっていう理由もあったんだ。
正直当初はもう何年か後に開催するイメージだったけど、(中身は前述のように大変だったけど)側から見たら割と順調にいっていたと思うし、僕らも勢いには乗っていたんだ。
会場の空きやその他色々な巡り合わせもあって、結成2年目のこのタイミングで開催することに決めた。
2021年1月
名古屋音楽大学オーケストラと総勢40人の配信ライブを開催して
次回こそは有観客でやりたくて、今色々と可能性を探っているんだけど、この原風景こそ2014年のちくさ座ワンマンなんだ。
どんな音楽でもそうだけど、オーケストラアンサンブルやクラシック音楽は奥が深すぎて、今もまだまだ勉強中。
これからもずっと勉強していくんだけど、当時は今以上に分からないことばかりだった。
そんな僕らを支えてくれたのが
初ワンマンからサポートしてくれていたチェロのユウキちゃん。
(分からない人は2013年前半の記事をチェック)
ちくさ座初ワンマンもユウキちゃんをはじめとするストリングスカルテットに協力してもらい、弦アレンジは日々進行していく。
あとは音響。
ちくさ座は円形のホール。
そしてステージの楽器の生音がダイレクトに客席に届きやすい構造だ。
それもあって客席で聴こえる音が結構違うんだ。
(例えばドラムに近い客席だとドラムの直接音が大きいとかね)
その【ライヴ感】がちくさ座の魅力なんだけど
今回はなるべく「客席の聴こえ方の違い」を無くしたかった。
そこでサラウンドモニターを採用したんだ。
(サラウンドが分からない人はこちら)
要するに円に沿って、スピーカーで取り囲むってことかな。
そこで力を貸してくれたのがJ'z Studioのエンジニア松井さんだ。
(このアー写いい。ロケットランチャー持ってるみたいだ。)
ライブだけじゃなく
1st FullAlbum「クアイフ」や最近では「ナンバーワン」など、レコーディングエンジニアとしてもお世話になっているんだ。
そんな松井さんと会場の音響について
何度も話し合いをしながら進めていったんだ。
ライブハウスはライブハウスにスピーカーが既に置いてあって、使用する多くの機材は会場にあるものを使うことが多いんだけど
今回のちくさ座は基本全部持ち込み。
だから予算を組むのも当時の僕らには大変だった。
「やばくない、これ、チケット売り切れても赤字じゃない?」って。
でも当然妥協したくなかったし、せっかく特別な場所でやるから凄いものを魅せないと意味が無いと思っていた。
だから松井さんをはじめとする関係者の皆さんに助けれてもらいながら、なんとか納得いく環境を作っていった。
松井さんの音に対して絶対に妥協をしない姿勢が僕は好き。且つ「かましてやろう」っていうロック魂みたいなものを持っている人だから、アーティストも色々なトライをし易いと思うんだよね。
個人的に音楽制作で大切にしてることは、保守と革新のバランス。(僕は革新に寄りがち(笑))
松井さんはそのバランスがすごくいいと思う。
特に東海地方でレコーディングしたい人は相談してみたらいいと思うな。
J'z Studio
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いよいよ本番。
チケットはソールドアウト。
準備の大変さと反比例するように、本番はいつもあっという間だ。
ライブの中盤までは聴かせる曲中心。
しかし後半では、僕らのロック的な要素を全開放していく。
何故この時僕はベースアンプの上にいるのか。今では思い出せないけど、とにかく心が開放されていたんだと思う。
その熱を頼りにバンドはフィナーレへとひた走り、初のホールワンマンは大円団で幕を閉じた。
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フェス・イベント出演
この頃少しずつ、フェスやイベントにも誘ってもらえるようになった。
FREEDOM NAGOYA2014
ROCK IN JAPAN FESTIVAL2014
それ以外にはOTODAMA SEA STUDIO2014や、TREASURE05Xなどなど、色々と出演させてもらって、そこで出逢ってくれたクアイフィーもいるよね。
こういうフェスやサーキットイベントに出演出来ることは当然嬉しいんだけど、同時に悔しさも沢山感じて、自分達の立ち位置を痛感するんだ。
例えばROCK IN JAPAN FESTIVALで僕らが演奏したステージのすぐ横の更に巨大なステージで、サカナクションが何万人の前で物凄いスケールのライブをしていた。
そういうのを目の当たりにすると、自分たちがすごく小さなものに感じるし、今まで遠すぎて見えてなかったものが見えてくる分、その距離や遠さにショックを受けるんだ。
今はそれも含めて必要な経験と思ってるから何でもこい!って感じなんだけど、当時の僕らは順調に進んできた分、その耐性が無かった。弱かったと思う。
ありきたりな言葉だけど謙虚さってやっぱり必要だと思う。どこまでいっても上には上がいるから、常に客観的に自分たちの立ち位置を見て受け入れることは、一歩一歩進んでいくためには大切。この時、身に染みてそれを感じたんだよな。
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他にも東名阪以外のライブハウスにも積極的に通い出したのがこの時期。
印象的なのが仙台のイベントの帰り道。
当時僕らは経費削減のために
愛知⇆仙台間や愛知⇆福岡間
という長距離でも
車で日帰りしていた(笑)(運転は99%内田)
そんなスケジュールに車が耐えきれなかったか、首都高速でタイヤがバースト。
運良く路肩に車を寄せることで難を逃れた。
前回の記事でも登場したこの幸宏は
JAFを待ってる間の暇つぶしで「タオル一枚でどれだけ面白い写真が撮れるかゲーム!」をしていた時の一枚である。(挑戦者は幸宏のみだが)
このハプニング以来、車の定期的なメンテナンスと、余裕を持ったスケジューリングを心掛けるようになる。身体あって命あっての音楽だからね。
スペアタイアに替えてもらって、また愛知へ走り出す。森はライブで歌ってるし一番ストレスも掛かるポジションだから基本復路は疲れきっている。
この時もおつかれモードだった。
(本人了承済み)
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ちくさ座ワンマンが終わってからも師走まで僕らはライブをし続けていた。ライブ力を付けたい、バンドとしてもっと成熟させたい。あとはバンドとしてもっと認められたかった。
2年の活動はすごく順調だったけど、下積みが無い分、周囲から斜めに見られることもあったし、前述のように自分たちも挫折や現実に対する耐性が実際無かった。
活動の幅が大きくなるにつれ、無理も出てきていて、今の活動のまま続けてるべきか迷っていた。
そこで翌年僕らは大きな決断をすることになる。
【2015年前半へ続く】
最後まで読んでくれてありがとう。サポートは新しい音楽を届けるために、すべてQaijffの活動に使わせて頂きます。