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「信頼」が育つ場~困難さを共に過ごす~

                         植草学園短期大学
                         教授  堀 彰人
 
 吃音(きつおん)をご存じだろうか。吃音とは、どもる話し方のことを言うが、実は吃音については誤解されていることが多い。
 例えば、子どもの吃音は性格や育て方によって生じるものだと思われたり、本人に話し方について意識させないよう、話し方には触れない方がよいのだと思われたりしてきた。そのため、保護者は自身の育て方のせいで、子どもが苦しそうな話し方をするようになったのではないかと自責の念に悩むことがあった。また、自分自身も、身近な大人も、お互いに気にしているはずなのに、話題にすることをタブー視するかのように避けてきた。これは、子どもたちにとって、「(吃音は)話題にすらできないほどの、悪いものだ」というメッセージとして届いてしまい、本当に困っている時に、それを言葉にして相談することができずに一人で悩みを抱え込む人が少なくなかった。
 
 どもりながら話すことに対して言い直しをさせたり、からかいの対象にしたりすることは、もちろんよくない。それまでは安心して自分の話し方で話していたのに、周囲の反応を警戒するようになり、吃音が出ないように(気がつかれないように)気を遣うようになっていく。さらには、話すこと、コミュニケーションの場に臨むことをためらったり、控えたりするようになることもある。吃音から派生した問題が大きくなっていく。吃音に気づかれないように、吃音のある自分が表に出ないようにと気を張って過ごすことから、本当は約1%どもる人がいるはずなのに、他の吃音のある人に気づかず、「この広い世界に自分だけがこうした話し方なのだ」と感じてきた子どもたちもいる。
 
 今は、吃音の原因は性格や育て方によるものではないことを相談の初期に伝えるようになり、また身近な大人が吃音をめぐる問題について、子どもとフランクに話せるようになっていくことが大切にされている。もちろん、土足でずかずかと入り込んで聞き出そうとするのではない。
 ちなみに、よく「ゆっくり言えばいいよ」や、「緊張しないで話してごらん」等の言葉をかけることもみられるが、それによってどもる話し方が変わることは多くない。特に子どもの場合は、一生懸命話そうと頭をフル回転させている上に、速度の調整や感情のコントロールについての注文が加わることになる。それも意識しながら話さなくてはならず、余計、話すことをめぐる負担が増える可能性もある。安心して自分の話し方で話せるよう、ゆったりと聞きながら、その時々のコミュニケーションに共感関係を築いていくことが大切なのだ。子どもの表現そのままを、表現する子ども自身を大切に受け取ることが、まず必要なのだ。
 
 タカハル君(仮名)は自分から積極的に話そうとするが、話している途中、同じ音が何度も何度も繰り返し出てきてしまったり、声が出なくなってしまったりして、なかなか話が先に進まなくなってしまう時がある。タカハル君のグループの子どもたちは、話し合いの時間に彼が話し終わるまで待とうとする子どもたちだった。ある日、普段より言葉が先へ進まなくなってしまった。待っている子どもたちの中にも、「どうしよう…」という空気が広まってきたが、なんとか発言が最後まで終わった。グループ内の緊張感がほぐれ、ほっとした空気が広がったように見えた。そこから、また何事もなかったように話し合いは進み、また活気づいていく…。吃音のある子どもへの配慮として、「最後まで話を聞く」ことは、多くあげられることである。このグループの子どもたちは一生懸命、それに徹しようとしていたが、この状況をどう思われるだろうか。
 筆者がこのグループに入れてもらい、それとなく進行役をさせてもらった。話し合いが進み、タカハル君が何か言いたげな表情になった。「タカハル君、何か言いたいことがありそうだね」と彼にバトンを渡す。やはり途中で何度もどもってしまって、先に進めなくなってしまうが、私は、合間に「うん、うん」、「へ~」、「なるほど」、「〇〇って考えたんだね」等々、相槌を打ったり、彼の言葉を復唱して返したり、意図を確認したり、また、一緒に話し合いに参加している仲間にシェアしながら聞いていく。そのうち、グループのメンバーも、タカハル君の言葉を拾って返しながら聞き始めた。タカハル君は、にっこり頷いたり、「そう、そう」、「え…と、〇〇っていうこと」と返したりしながら、また、話を一生懸命続けようとしていた。前回の話し合いの時は、どことなく緊張感の漂う時間になっていたが、今回は終始、お互いが柔らかな表情で視線を向け合いながらの時間になった。
 

「植草共生の森」の素材で学生が作った作品

 吃音の子どもと話す時は、頷いたり、言葉を返したりすれば話しやすくなる…という理解で終わらないでほしい。
 最初の話し合いについて考えてみると、「聞く側」の子どもたちと、「話す側」のタカハル君というように明確に線が引かれていた。タカハル君の発言の番になって、その関係が顕著に浮かび上がった。聞く側の子どもたちは、「最後まで聞こう」としてくれていた。しかし、「聞こう」が、いつの間にか「声が出るまで待とう」(いつ声が出るだろうか)、「発言が終わった」(彼の話す番が終わった)へと置き換わってしまってはいなかっただろうか。タカハル君も、そうした空気の変化を感じつつ、なかなか次が出てこない状況に対して、「早く抜け出せないだろうか」と自分の話し方に、自分の発言の順番を終わらせることに意識が集中していった。だから、発言が終わった時に、どことなく張り詰めた空気がほっとした空気に変ったのではなかったか。お互いが相手を気にしながら、「別々に」困っていたのだ。
 
 本来、話者は抱いたイメージや気持ちを言葉に乗せて理解を求めたり、共感を得ようとしたりする。聞き手は、その言葉を窓口にして、話者の抱いているであろうイメージや気持ちに思いを重ねようとする。話者はその聞き手の反応を感じながら、必要に応じて表現の調整を図る。相互にイメージや気持ちを重ね合わせ、歩み寄ろうとする共同作業なのである。しかし、最初の話し合いでは、どちらの子どもも、タカハル君の話(の番)が終わること(終わらせること)に気持ちが向き過ぎてしまい、結果的に、イメージや気持ちを重ね合おうとする交流が途切れてしまっていたのである。タカハル君にとっては、共感を得ようと話し始めたはずが、自分の順番を終えるため孤軍奮闘する時間に変わってしまっていたのだ。
 一方、後者の話し合いでは、タカハル君の発言の順番ではあっても、単に「聞く」役割と「話す」役割が固定されてしまうのではなく、お互いがそのコミュニケーションに相互に乗り入れながら、イメージや気持ちを重ね合うことに目が向いていた。タカハル君にとっては、どもってちょっと大変ではあったけれど、その大変な時間を友だちと“一緒に”過ごせており、少なくとも孤軍奮闘しなければならない孤立した時間には感じなかったのだろう。そして、お互いにとって本来の目的であったはずの、話者の伝えたい内容を共有したり、共感したりすることが達せられていたのだ。
 “今の自分”を受け取ってもらえている実感は、こうして共に過ごす時間の中で育っていくのではないだろうか。その時間を通して、自分を受け取ってくれる他者への信頼、他者から受け入れられる自分への信頼が育っていくのだ。

植草学園大学・植草学園短期大学 特別支援教育研究センター
 障害者支援を学ぶことは、すべての支援の本質を学ぶことです。千葉市若葉区小倉町にキャンパスをもつ植草学園大学・植草学園短期大学は、一人ひとりの人間性を大切にした教育を通じて、自立心と思いやりの心を育むことにより,誰をも優しく包み込む共生社会を実現する拠点となることを学園のビジョンとしています。特別支援教育研究センターは、そのビジョンを推進するため、平成26年度に創設され、「発達障害に関する教職員育成プログラム開発事業」(文部科学省)の指定を受けるなど、様々な事業を重ねてきています。現在も公開講座を含む研修会やニュースレターの発行なども行っています。


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