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本を読みながら考えていること


作家修行生活もはや20日。
(勝手に作家修行生活と名前をつけている)
以前にも増して、本を読む量が増えている。

図書館で2週間で10冊の本を借りれる上限いっぱいまで借りているが、1日に一冊ペースくらいで読まないといけないという状況に、自分を追い込んで
いる。

最近は、ずっと自分で読まないように禁じていた「沢木耕太郎」さんの本を読みあさっているが、今日も一冊読み終えた。
それは、各業界の著名な人と対談をしているもので、小説などとは異なるが、中には作家、女優、棋士、歌手の方が登場されるので、興味半分、対談の流れを
感じるのが好きで、今までも数冊このインタビュー本を読んでいる。

他の作家の小説も読むのだけど、このインタビュー本も面白く感じるのは、おそらく私がずっと生徒さんたちと向き合い、その話を聞き、そこからその方がアピールできる部分や自信を持っていい部分を見つけ出す、という仕事を長年やってきたからだと気づいた。

人の人生に無駄な経験は、一つもない。
そんなことを、スタンドFMで昨日話したところだった。


沢木さんが、「青春の言葉たち」のあとがきで書いていらっしゃる文がある。


「対談をしていると、流れの中で話の核心がうねるように変化していく。そして、そのうねりの中から不意に面白い話が飛び出してくる。(略)」

沢木耕太郎 「青春の言葉たち」より


この部分には、スコーンとホームランを打ったような快感と共感があった。
同じような経験をしている人ほど、共感度合いは深いはずだ。

修行生活に入って本を読むときに、本を読んでいる間に考えていることが違ってきたのを感じる。
それは「書き手視線」を持ったことだ。

読む専門であれば、そこにどっぷり浸かりきっていればいい。
ある意味至福の時間だ。
だが、自分が書く側に回ろうと思っている今、「共感」だけではなく、
「自分の可能性」や「自分の能力」についても、考えている自分がいることに気がついた。
第三者の視点を持って、本を読んでいるのだ。

本を読むという行為は、自分と向き合う行為だとずっと前から思っていた。
作者が書いたことに対して、自分がどう思うのか、どう感じるのか、を問いかけることが簡単にできるからだ。
人は、自分や他人を理解するのには、比較対象があったほうがわかりやすい。
作家という人の考えていることや感性があるからこそ、自分と比較して自分を知ることができるのだ。
今や作家と自分、さらにプロデユーサー視点のようなものが加わっていることに気づいた。

「これが理解できるということは、自分はこれはできる可能性があるということだ」
とか
「この表現は全く思いつかなかったから、今後の参考にしよう」
とか
いくらでも学ぶことがある。

つまり「本を読みながら、自分を採点し、評価している視点」が加わっているらしい。
そこには、「修行」の立場なので、落ち込むという感情はどこにもない。
相手、つまり作家の人は「師匠」なのだから、なんでも読んで、盗んでいけばいいと思っている。
そしてそんな姿勢で本を読むことが、案外楽しい。
まさに楽しみながら、学んでいる感じだ。

明日からは、ひたすら海外作家の人の小説を読むので、また新たな気づきと学びがあるだろう。
本を読む人が減っている、と言われている昨今だが、ずっと本を読み続けてきた私は、「物語」と「言葉」の力を信じているので、読んでは学び、学んでは書く、ということを続けていきたい。


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