見出し画像

神話の世界を探求する:神話は創造力の源泉である

今日は仕事はお休み~。というわけで「全く専門でないこと」を探求しています。

本当は土日にその時間を充てられたらよいのですが、今週は土曜日がこの時間で、日曜日は月曜日からの前準備の予定です。

今日の話を少し要約しておきます。

神話の個別性と普遍性について考えました。

神話(昔話も含む)は、個別のエピソードであり、具体性があるお話なのですが、そのお話が示唆するとこころは、私たちに何らかの『普遍的な』気づを与えてくれます。何に気づくかは人によって異なります。その時、置かれた状況、心理、歳・・・によって変わって来るでしょう。私はオルぺウスのエピソードから、妻を失った彼が、それでも詩歌をやめず、首を切られてもなお、その首は詩歌を続けたエピソードは、私たちに詩歌、芸術が欠かせないもの、切り離せないものであることを示唆していると思いました。

神話(昔話も含む)は私たちの創造力の源泉である、といえるのではないでしょうか。今回は言及しませんでしたが、北山修先生の昔話・神話から読み解く日本人の精神的な深層についてはまた機会を改めて探究したいと思います。

大体、こうした内容なのですが、よろしければ以下の本文をご笑覧ください。

1.神話は死なない。

 こちらにも紹介していただいてますね。神話学入門を読んでます。

読んでいる・・・といってもかなり難解なので、少しずつ楽しみながら。元々読み切ることが目的、というよりは、どちらかといえば、神話の世界に触れてみる、そこで自分の創造性を膨らませよう、というのが目的です。

いや・・・逆説的ですが、創造的であろうとすればするほど創造的でなくなるのかもしれません。

意図せずして生まれたもの、狙ったものではないもの。そうしたものの方が何か私たち(少なくとも私)に様々な創造性を掻き立て、心に留まり続けるのではないでしょうか?

なので、創造力を培うために読もうとは思わず読み進めています。


神話学入門においては、様々な神の話が出てきます。ただ、私たちにとって必ずしもなじみがないものなので、それぞれを調べていかないと進みません・・・。

例えば、オルぺウスはこのエピソードで有名ですね。

オルペウスの悲しい琴の音に涙を流すペルセポネーに説得され、ハーデースは、「冥界から抜け出すまでの間、決して後ろを振り返ってはならない」という条件を付け、エウリュディケーをオルペウスの後ろに従わせて送った。目の前に光が見え、冥界からあと少しで抜け出すというところで、不安に駆られたオルペウスは後ろを振り向き、妻の姿を見たが、それが最後の別れとなった[3]。

昔話で、みてはいけないといわれたものは見てしまいますよね(お約束)。

たとえば、鶴の恩返し。

あれも見てはいけませんよと言われるわけですが、見られたことをきっかけに永遠の別れが来ます

昔話と神話は厳密には異なります。昔話は場所や人物などが特定されないで話が始まります(昔々あるところに・・・という奴ですね)。一方で、神話は、場所や人物が特定されているところに違いがあります。

とはいえ、こうした昔からの伝承にはある種の共通点があるといってもいいでしょう。

話が脱線するのですが、

日本の神話・昔話について、精神分析の観点から考察されているのは北山修先生ですね。

精神科医、精神分析家、臨床心理学者、作詞家、ミュージシャンという多彩な経歴を持つ異色の方です。

北山先生は、数多くの著作を書かれていますが、

こちらは日本における神話・昔話から私たち、日本人の文化、精神性を考える上で興味深い内容です。章立てだけ紹介しておきましょう。

はじめに
 第一章 見るなの禁止
「見るなの禁止」総論
 第二章 愛する者を「害する」こと──父神イザナギの罪悪感
悲劇と発達
 第三章 日本の悲劇的民話における前エディプス的「タブー」
 第四章 昔話における同化と異化
 第五章 押しつけられた罪悪感──「阿闍世」の矛盾
 第六章 「見えないこと」について
禁止と臨床
 第七章 転移・逆転移における「乙姫の禁止」
 第八章 患者の羞恥体験に対する治療者の〈受けとり方〉
 第九章 保持機能の観点からみたいわゆる「境界例」
 第十章 治療的退行についての小さな展望
自虐的世話役たち
 第十一章 「世話役」人格の治療の一側面──劇化
 第十二章 傷ついた世話役たちと罪
 第十三章 ありがたいもの──恩と支払い
さいごに
 第十四章 「ともに眺めること」と「浮かんで消える」──浮世絵の中の日本の母と子
解説

日本の神話、昔話についても増えてきたいな、と思います。

今、現在ある私たち日本人の良いところ、そして変わっていかなければならない課題がどこを起源としているのか。そのヒントは、神話・昔話・伝承を読み解いていくことかもしれません。

戦後75年を迎える今年。私たちは今一度、自分たちのあるべき姿を見つけ直さなければならない気もしています。特に今、進められているリニアモーターに関する問題(静岡県知事とJR東海とのやり取り、水源、自然環境に関する問題)を考えますと、私たちが立ち返らなければならない。見直さなければならない、何かがある気がします。

2.詩歌は決して奪うことが出来ないもの

さて話を戻します。話が拡がり過ぎるので、個々では、国、民族の違いではなく、共通するもの普遍的なものに限定していていきます。

妻を失ったオルぺウスですが、そのままお星になった(星座になった)のかと思えばそうではありません。物語には続きがあります。ギリシャ神話の面白いところはその後のエピソードもちゃんと用意されているところですね。

妻を失ったオルペウスは女性との愛を絶ち、オルペウス教を広め始めた。ディオニューソスがトラーキアに訪れたとき、オルペウスは新しい神を敬わず、ただヘーリオスの神(オルペウスは、この神をアポローンと呼んでいた)がもっとも偉大な神だと述べていた。これに怒ったディオニューソスは、マケドニアのデーイオンで、マイナス(狂乱する女)たちにオルペウスを襲わせ、マイナスたちはオルペウスを八つ裂きにして殺した[6]。
マイナスたちはオルペウスの首をヘブロス河に投げ込んだ。しかし首は、歌を歌いながら河を流れくだって海に出、レスボス島まで流れ着いた。オルペウスの竪琴も、レスボス島に流れ着いた[7]。島人はオルペウスの死を深く悼み、墓を築いて詩人を葬った。以来、レスボス島はオルペウスの加護によって多くの文人を輩出することとなった。また、彼の竪琴はその死を偲んだアポローン(一説にはアポローンの懇願を受けたゼウス)によって天に挙げられ、琴座となった。

次のエピソードは私はちょっと知りませんでした。妻を失った後のオルぺウスの話です。そう、首を切られても歌い続けたんですよ。オルぺウスは。

ちなみにここで出てくるアポロ―ンは、詩歌、音楽の神で、オリュンポス十二神の一人でゼウスの息子です。

オルぺウスが最も偉大だと思っていたのはアポローンであり、やはり詩歌が好きだった、ということが分かるエピソードです。

このエピソードをどのように捉えるか?

私たちにとって、詩歌を奪うことが出来ない(どんな手段を使ったとしても)。つまり生きる上で必要なものである。そうしたことを再認識させてくれるのでないでしょうか。

ドイツのメルケル首相が5月9日に行った演説では、「連邦政府は芸術支援を優先順位リストの一番上に置いている」とし、文化を重視する姿勢が強調された。その演説を日本語訳し、テキストでお届けする。

ぜひ、安倍首相にもこうしたメッセージを発信してほしいと願っています。私たちはただご飯を食べて生きているわけではなりません。文化的な営みを欲しているのです。そのうえで、私たちが必要なことは何なのか?もう一度、日本人における、伝統芸能、音楽、芸術(舞台芸術を含むあらゆる活動)の重要性を認識してほしいと切に願っています。

神話学入門の中では、神話について次のように言及されています。

神話はオルぺウスの切断された首のように、たとえ死んでも、またどんなに遠く離れていても、歌うことをやめない(神話学入門、19頁)。

と評されています。

つまり、神話は不滅である、ということです。

そして次のように言われています。

神話が生きていた時代には、神話を身近に感じていた人々の間では、神話は一種の音楽のように歌われるだけではなかった。つまり神話は生きられたのである。素材のままであっても、神話はその担い手であるその人々にとっては表現形式・思考形式・生活方式であったのだ(神話学入門、19頁)

神話が生きていた…今は生きていないのでしょうか?

そうかもしれません。私たちの生活は近代化し、資本主義社会となったことで、得たものは多くある一方で、こうした神話の世界は遠いものになったのかもしれません。

ですが、おそらく・・・オルぺウスのように神話はどこかで歌い、語り継がれていくのではないでしょうか?きっと失われず。

3. 私たちに何かの気づきを与えてくれる

話があっちこっちにいってしまいました。

神話の話は、私たちにとって色々な創造性を拡げてくれるもの、であるということではないでしょか。

同時に神話の話は、個別のエピソードでありながら、どこか普遍性を感じさせるものです。これは神話に限らず、昔話もそうでしょう

私たちに何か教訓めいたものをもたらしてくれる、いや、そんな直接的なものではないですね。

私たちそれぞれに課題となっている「何か」を教えてくれるのだと思います。神話のエピソードを読んで、考えることは色々です。

それは自由でよいのだと思います。

よく名作は何度読んでも発見がある。

と言われます。

それはそこに込められたエピソードが、私たちの現在生きている状況に照らし合わせて、突き刺さるからこそ、何度読んでも発見があるのだと思います。

20代の時に読んだ感想と、今、40代の時に読んだ感想は、異なるでしょう。

誰が読んでも同じ感想になる。それこそツマラナイですよね。神話(昔話も含む)は私たちの創造力の源泉である、といえるのではないでしょうか。

私も一人の作り手(書き手)として、いつまでも読まれるような本を書けるように精進していきます。

今回は言及しませんでしたが、北山修先生の昔話・神話から読み解く日本人の精神的な深層についてはまた機会を改めて探究したいと思います。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?