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ぼくのBL 第八回

 前回の日記に「読まずに死んだら死にきれない」本がたくさんあると書いた。内藤陳さんに言わせれば『読まずに死ねるか!』本のことですね。

 ミステリ馬鹿の私は10代後半から世の様々なミステリ(ほとんど文庫)本を集めに集めまくりました。自分でも呆れるくらいの量。熊だったら死ぬまで冬眠できるくらいに蒐集しましたね。
 本の興味って連鎖するんですよね。
 同じ著者の本をコンプリートしたくなるのはもちろんだけど、私の場合でいうと、ミステリフリークになったきっかけは、新本格ミステリのビッグバン、綾辻行人の『十角館の殺人』です。そのあとがきで触れられていたのが島田荘司。綾辻の新刊を待つ間に、数多くの既刊があった島田ミステリをそれこそ貪るように読みました。『占星術殺人事件』『斜め屋敷の犯罪』『異邦の騎士』、光文社から出ていたトラベルミステリ(どれも傑作なんだけど、忘れがたいのは『北の夕鶴2/3の殺人』『奇想、天を動かす』『死者の飲む水』等々)。
 そんな痺れるような読書体験をしているうちにも、新本格ミステリの同期たちが次々と新刊を出していきます。法月綸太郎、我孫子武丸、斎藤肇、太田忠司。レーベル違いで東京創元社からは北村薫、宮部みゆき、折原一、山口雅也。
 ああ、いま思い出しても何と素晴らしき黄金時代だったでしょう。
 そしてそのすぐあとには、講談社ノベルスで京極夏彦がデビューします。持ち込み原稿だったという『姑獲鳥の夏』をきっかけにメフィスト賞が設立され、第1回の受賞作に選ばれたのが森博嗣の『すべてがFになる』でした。
 何の話だっけ? 興味が連鎖するって話でした、はい。
 そうだ、連鎖といえば、「不の連鎖」で笑えない小咄をひとつ。
 綾辻行人『十角館の殺人』に出てくる登場人物の大学生(ミステリサークルのメンバー)が、作中で社会派推理を腐す会話があるんですね。リアリティを求めるあまり、ミステリが本来持っているロマンを忘れている、的なことを言うわけだ。それを真に受けてしまった十代のわたしは激しく同意し、金輪際社会派推理というものは読まずに一生を終える!みたいな馬鹿なことを考えたわけです。
 それを実行に移すのも特に難しい事ではありませんでした。何せ新本格隆盛の時代、次から次へと新刊が出てきます。それに、本格以外にも興味は拡散していき、冒険小説、時代小説など、それこそ読みたいと思う本はいくらでもあったのです。
 そんなこんなで、やたらめったらに本を買いあさる日々が20年以上も続きました。買うだけで満足、表紙や背やあらすじを眺めては(どんな話なんだろうな……)と夢想にふける毎日。
 ある日、ふと我に返ります。
 買った本をすべて読むのは……無理ですね!(って20代半ばには既にこの事実を悟ってはいました)
 ただ、眺めているだけの好事家で終わっていいのか?
 読みたくて買ったんだよな、お前。
 ようやく重い腰を上げたのは40歳を超えてからでした。
 遅い。あまりにも遅い。
 しかし、世の中、遅すぎるってことはないんだぜ。
 いろんな本の登場人物が言ってくれています。
 だから、遅きに失したとはいえ、読む楽しさを追求していこうじゃないか。
 そう思って読みはじめました。(まったく読んでなかった訳じゃないんですよ。「買う」と「読む」の比率が30:1くらいだった、ってことです。)
 話が脱線すると元のレールに戻しにくいですね、コレ。
 えーと、そうだ。「負の連鎖」でした。
 別に恨んでいるわけじゃないけど、綾辻行人の影響で松本清張デビューが20年遅くなったってことが言いたかったんです。
 いつごろだったか忘れましたが、宮部みゆきが編纂した松本清張短編集(全3冊)が文春文庫から出たんですね。それを買って読んでみたところ、「何これ!めっちゃ面白いじゃん!!!」ってぶっ飛んだですよ。いいぞ、清張は。

 さて、最初の話題に少しも進まないまま長文を書き連ねてしまいました。
「読まずに死ねるか!」でしたね。
 これはまた次回ってことで許してください!

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