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TAROとにらめっこするための流れ【展覧会 岡本太郎】

『展覧会 岡本太郎』に行ってきた。
今回はその感想をちょろっと書こうと思う。

2021年まで20年間、『太陽の塔』のお膝元で成長し、現在は『明日の神話』が鎮座する渋谷に住んでいる。
自らを省みる際、必ず現れる人物である。物心ついてからずっと僕の人生に影響を与え続けてきた。
小学生がわざわざ愛知万博に行ったのも、『明日の神話』が修復されたときにわざわざ日テレまで見に行ったのも、いつの間にかクリエイターを目指していたのも、大学時代に曲がりなりにもアートを作って卒業したことも、今現在も映像を作ってなんとかご飯を食べていることも、全てに岡本太郎の影響があると言っていい。

とはいえ、岡本太郎について知識は少なく、これを書くにあたって色々調べているが自分の知識不足に苦しくなっている。しかし私は太陽の塔をインスタグラムに365日投稿していたことがあるのだ。心配はない。

美術における文脈

僕は大学時代、美術専攻ではなかった。いや、実際には美術専攻と言っても差し支えないように勉強するべきだったのだろうが、映像という大きな宇宙に巻き込まれたため、一般文学部生が受ける程度の授業が基本になって自分の美術知識は構成されている。

そこで学んだことは「文脈」の存在である。

美術史を知らないと西洋美術を見ても仕方がないというのは、よく聞く話である。
実際文脈を知って鑑賞するのと知らないで鑑賞するのでは、体験に雲泥の差がある。

見るものではなく読み解くものとして作られているので、ある意味当然ではある。
しかし日本では西洋美術史を学ぶ機会というのは少なく、その状態で現代美術に触れると「何もわからない、こんなものは芸術じゃない」と簡単に言ってしまうのである。

例に洩れず、「俺でも作れそう」と小学生の時に現代美術を見て思ったが、むしろそれが重要なのであり、誰でも作れるものをどういう文脈で発表するかが西洋美術において芸術か芸術ではないかを決定する。

「ピカソは絵がうまかったのにわざわざあんな絵を書いた」からすごいのではない。「あの時代にあの絵をあの形式」で発表したことがすごいのだ。もちろん、あの形式は誰でも書けるものじゃないという批判も「文脈」から逸れている。

するとだ。美術を知った人間は岡本太郎を見てなんで「あの時代にあの絵をあの形式」で出だしたのだろう、あまり評価できないのかと思うわけである。

うまく美術史の文脈に当てはめられないのだ。

岡本太郎の評価ができない

岡本太郎がパリにいた際に作成した『空間』(1934)は、アブストラクシオン・クレアシオンの年鑑に載っており、その対向ページはモンドリアンの作品だったという。
今年はミロ展にも行った。岡本太郎への影響を強く感じたうえ、大勢の日本人との交流があったことを知った。(同時にその展覧会の中で岡本太郎という名前は出てこなかったが……。)

何より、岡本太郎はピカソと交流があり強い衝撃を受けたと明言している。

彼らの「純粋抽象」や「キュビズム」、「コラージュ」など様々な流れがあり、ゆっくりとシュルリアリスムは影を潜めていった。
しかし、岡本太郎はシュルレアリスムに分類される絵をたくさん書いている。
どれだけ抽象的に書いても、モチーフがあり、空間における光の仕草が丁寧に書かれている。
一見何を書いているかわからなくても、何かを書いていることがわかるだけで、純粋抽象からは程遠い。

『コントルポアン』(1935)
『空間』の横にあった作品。『空間』は撮ってないしそもそもこの写真は友人が撮ったものだ。

小さい頃から岡本太郎に触れて育った。とても好きな芸術家だったが、肌感覚としてなんとなく高い評価は受けていないなと感じていた。
それは大学で西洋美術の授業を受けて確信に変わり、腑に落ちた、気でいた。

文脈を拒絶する岡本太郎

考えれば当たり前なのだが、岡本太郎は全てわかった上でこういった作風になったのだ。

パリ時代、岡本太郎は芸術に苦悩する。
本展で扱われた若き日の岡本太郎作と思わしき3点は、かなり抽象度が高く、コラージュ的に羽をつけたり、陰影や光の表現が削ぎ落とされていたりなど、絵の中に空間を感じさせないような作りになっている。(それでも一部立体的に見えるようになっているのだが……。)

若き日の岡本太郎作と思われる三点。違うかったらおもろいが、多分本物だろう。

今回はじめて日本で展示された『露店』(1937)もまた平面的な見せ方が特徴的である。

キャンバスの可能性や芸術の限界を模索していた時代に岡本太郎はシュルレアリスム「的な」絵を書き続ける。
概念化が進む美術史においてあくまで具象を捨てなかったのだ。
それは西洋美術の潮流から離れた結果だったのである。

岡本太郎は「自分には師匠も弟子もいない」と言っていた。
多くの画家の影響を受けているうえ、文脈が大事な美術においてかなりナンセンスな言葉であるが、そんなものは承知で言ったのだろう。
岡本太郎に正式な弟子はいないのかもしれないが、岡本太郎に直接あって芸術家を志した人も調べればすぐ出てくる。片岡鶴太郎やジミー大西などがわかり易い例だろう。

それでも岡本太郎には師匠も弟子もいなかった。自分を文脈の上に置くことを拒んだのだ。

岡本太郎の文脈を発掘する

しかし、文脈は必ずある。本人がどう言おうと、決めるのは後世の人間だ。今回の展覧会で一つの文脈を見つけた。それは祖父の「書」であり、それは父の「漫画」であり、それは「記号化」なのではないだろうか。

抽象表現と具象表現の2軸、ある種一次元的な尺度の中で、岡本太郎は「対極主義」と称し具象画の中に抽象を、抽象画の中に具象をぶつけた。しかし岡本太郎の書くキャラクターは決して具象でも抽象でもない。「記号」だったのだ。

岡本太郎は1951年に『駄々っ子』を描き、1973年にも『訣別』を描くが、どちらにも同じような動物が描かれている。このスターシステムのようなキャラクター性は、動物が抽象化されて描かれているのではなく、キャラクターとして岡本太郎の頭に住み着き、再登場した。まさに漫画的な表現である。

岡本太郎は、民族学を使ったアプローチからカリグラフィと抽象主義の融合を目指す。文字がモチーフになった、もしくはモチーフが文字になった作品がたくさんある。1961年制作の『黒い生きもの』などが良い例である。展示会内では書家である祖父・岡本可亭の影響があるのではないかとキャプションがあった。

1949年制作『重工場』では、まるでピクトグラムのような人間が歯車に巻き込まれているような、しかし躍動的に踊っているような、そういった姿が見て取れる。
他にも東京オリンピックを題材にした『跳ぶ』(1963)は、スポーツをうまく抽象化した作品であるが、これもまたピクトグラム的と言って差し支えないだろう。
実物を見て初めて気がついたことだが、日立マクセルのCMに登場した角が何本も飛び出ている鐘『梵鐘・歓喜』(1965)には、たくさんのピクトグラム的な人間が描かれ、その両手が伸ばされてそれが角になっている。あの鐘から伸びた角はすべて手だったのだ。ピクトグラムは1964年の東京オリンピックで採用され世界に広まったことも含めて面白い。

『重工場』(1949)
対極主義を表すように置かれたネギが面白い。
真ん中上にいる穴から指示をする人間もコミカルだ。

「記号化」

記号化という眼鏡で岡本太郎の絵を眺めると、岡本太郎の描く絵の愛嬌の理由に気づく。グロテスクで衝撃的な、いや爆発的な作風や重い題材が、絵に出てくるキャラクターの可愛さや記号化によって、目をそむけたくなるような絵になっていないことに気づく。

たくさんのキャラクターが出てくる絵といえば『森の掟』(1950)である。要素だけ抜き取れば弱肉強食の自然の残酷さや非情さが全面に出てきそうなものだが、実際には生き物の力強さなどポジティブなイメージも同時に浮かび上がってくる。岡本太郎の「背中のチャックを開ければ、悲劇が喜劇に転じる」という言葉の意味を対極主義的に捉えることもできるが、記号/漫画的な見方をすると悲劇をコメディタッチに描いていると見ることもできる。

記号化によって一変した景色は岡本太郎という存在が大衆文化の文脈にいることを示し始める。

大衆に向けた芸術を作る岡本太郎がいる。『太陽の塔』はもちろんのこと、デザイナーとしての活動や公共施設に飾られる絵(旧東京都庁の壁画など)の製作。特撮映画(!) やミュージカルの演出など、芸術を大衆に向けている。

1970年の大阪万博のシンボルであった『太陽の塔』は今では昭和の高度経済成長期のシンボルであり、大阪のシンボルでもある。

書から走り出した記号化の文脈は、漫画家の父親・岡本一平から岡本太郎を通り、今では漫画に逆輸入され芸術や爆発のシンボルとして見ることができる。

「オトナ帝国」、「20世紀少年」、「ナルト」、「ワンピース」などの直接的な引用もあれば、「ヱヴァンゲリヲン」の使徒など間接的なオマージュまで。もしくはもっと簡単に『宇宙人東京に現わる』(1956)→『ウルトラマン』→『ヱヴァンゲリヲン』としてもいいかもしれない。

つまり岡本太郎の文脈とは、西洋美術ではなく日本の大衆芸術だったのである。「芸術感―アヴァンギャルド宣言」(1950)

日本人の読まない美術観を作った

そうなってくると、岡本太郎の仕事が本当の意味で評価されてくるのはこれからなのだ。

岡本太郎を取り扱う際には、当時最先端の西洋美術をいち早く取り入れた西洋美術家として扱うか、縄文土器の美術的価値を発見した民族学や民芸史において一役買った人物かであったが、アニメ・漫画、今ではゲームも含め、メディアミックスに展開されていく日本文化が評価され始めたとき、それは今であり、岡本太郎が文脈的に評価される日は近い。

世界が日本的美術観を獲得したときに岡本太郎は現れる。
その日本的美術観は既に私達が持っているものだ。

なぜ持っているのか。

最初に述べた、一般的な日本人は西洋美術を読み解けない問題はこの「岡本太郎的美術観」によるものであると仮説を立てている。

日本人の持つ芸術家への「奇抜で本能的な変人」という偏見、もしくは願いは、岡本太郎が植え付けたものだ。たくさんメディアに出て人の目に触れて、「芸術は爆発だ」という言葉を流行語にしたのだ。

岡本太郎の美術観は、「権威から離れること」と「大衆に受け入れられること」、そして「爆発」だ。文脈を必要としない、見て感じてそれが言葉にできなくても良いという考え方、衝撃を与えるもの。それが岡本太郎の作った、日本人の美術観だ。

西洋美術を西洋美術として見るとき文脈は必要になるが、読み解かずにそのまま感じるという美術観は、純粋経験的であり、禅であり、本能的で、縄文的だ。我々は美術を読み解けないのではなく、違う角度から受け止め絵画とぶつかっていたのだ。

と、そういう鑑賞も大事なのではないかと、そういう仮説だ。

なににしろ、現代日本の文化に与えた影響ついて語るものがもう少しあってもいいのではないかと感じている。岡本太郎はいつでも僕らの隣にいるのにソコにいることについて語らないのである。

いま岡本太郎を見つめることができたことは、かなり幸運なのではないかと、そう思った。

『明日の神話』(1970 - 2006)


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