【INTJ】欠点なんて治さなくていいよって話

昨日、自己肯定感についての記事を書いた。
そこで、自分の欠点すら自分を構成する大事な要素だと書いた。だから、私は自分の欠点をあまり治そうとは思っていない。
そもそも、欠点は本当に治さないといけないのか。

私には欠点は多いが、その一つに「言葉をオブラートに包めない」というところがある。
言葉がストレートすぎる。火の玉ストレートで、相手の心を抉ってしまう。欠点を治そうとは思っていないが、相手を傷つけるのは本意ではない。嫌われても構わないが、率先して嫌われたいとは思わない。だから、気をつけてはいる。

だが、本気の火の玉ストレートを好む人もいる。
世の中、忖度や配慮という言葉が幅を利かせているから、気を遣わずに言う人は少ないのだろう。
どのタイプにも気を遣わない、遣えない人はいるだろうが、INTJは目上や目下に関係なく言う。私が、比較的上司やおじさんにかわいがられるのは、こういうところなのかもしれない。当然、嫌われもするが。

どんなに気を遣って、配慮して、忖度して、自分の感情を殺して、必死に相手のことを考えたって、必ず誰かを不快にさせるし、迷惑かけるし、嫌われる。
逆に言えば、どんな人間にだって、気に入ってくれる人は必ずいる。
迷惑をかけたり、不快にさせてしまった時に、相手にきちんと謝ればいい。その人には、別の表現で気持ちや考えを伝えればいいだけの話だ。

世の中、コミュ障で悩んでる人は多いと思う。社会人として生きていくには、コミニュケーションスキルは高い方がいいのは確かだろう。でも、コミュ障で何が悪い?
繊細で何が悪い?苦しんで何が悪い?生きづらくて、自己肯定感低くて、頭が悪くて、優しくなくて、何が悪い?
そこにフォーカスを当てるから、自分の欠点を欠点だと認識してしまうのだ。木を見て森を見ずどころか、木の葉の些細な欠けに注目してしまっている、と私は思う。

どんな森にだって、枯れ葉はあるし朽ち木もある。枯死した木だってある。うまく成長できずに死んだ木もあるだろう。森全体を見れば、その朽ち木や枯れ木が土の養分となり、新たな命を育む。
欠点のように見えるところだって、自分という人間の養分として、生きる糧として利用してしまえばいいのだ。

全く木の生えていない砂漠だって、それも地球の一部だ。砂漠でしか生きられない動物もいるだろう。地球だって広大な宇宙の一部だし、現在だって悠久の時間の一部でしかない。
そんな世界で生きていて、些細な木の葉の欠けにこだわる必要なんてない。話を壮大にしすぎるのも、私の悪いところにも、いいところにもなりうる。

私はよく人からポジティブと言われるが、こんな思考で生きていればネガティブになりようがない。我ながらいい生き方ではないかと、自惚れてすらいる。どうりで生きづらさを感じないはずだ。
私はオブラートに包むのは下手くそだが、だからこそ見えた景色もあるし、今の自分になれたし、生きてこれた。

コミュ障だから生きてこれた、繊細だから生きてこれた、生きづらさを抱えていたから、生きてこれた。それでいいのではないか。
どんな森を作りたいか、どんな人間になりたいのか、そこを重視した方がいいと、私は思う。手の加えられていない原生林も、ピクニックに向いた雑木林も、どちらも立派な森だ。いや、林だ。森と林はどう違うのか、規模か。今はどうでもいい。

それでも、自分を好きになれないという人がいる。自分にはやっぱりいいところなんてない、と言う。それはそれでいいと私は思う。自分を好きにならなければならない理由なんかない。
どうせなら、「宇宙いいところがない人列伝」に入れるくらい、いいところがない人を目指せばいいと思う。人類が始まって40万年歴史の中で、すべての人間のいいところがない人ランキングをつけて、あなたは何位くらいに入れそうだろうか。

生きている人だけに限っても、「いいところがない人世界大会」の日本代表にすら入れないと思う。せいぜい職場代表、町内代表レベルだろう。上には上がどこまでもいる。見る人が見れば、長所なんていくらでも出てくるものだ。
さて、それでも参戦するつもりはあるだろうか。
隣町の代表は手強いぞ。

この記事が参加している募集

私は私のここがすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?