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お金の幻影

想像してみてください。
あなたは余命半年の末期がん患者。遺産を相続する家族は1人もいない。そして今あなたは信頼のおける人間から100万円が1年経過した瞬間、確実に1億円になるという投資案件を持ち出された。さてあなたはこの投資案件に乗るか。
答えは恐らく「ノー」なはずです。
数字だけでみれば投資倍率100倍という信じられないほど魅力的な投資であるのに、なぜコミットしないのでしょうか。答えは簡単。生きていないからです。死んでから1億円が舞い込んできてもあなたはそのお金を1円たりとも使うことはできないからです。

一方で金融の世界からみれば(お金という尺度のみからみれば)、この投資案件は喜び勇んで乗るべきものです。1年後確実に100倍、こんなおいしい投資話はありませんから。
多くの金融理論では投資の尺度を単純に「お金」という尺度のみで測ります。確実に100万円が1年で1億円になる案件と500万円になる案件の2つの案件がテーブルに並べられたなら、(政策的な投資は別にして)誰もが1億円の案件の方を選ぶ。それがお金を唯一の尺度とする「金」融の世界の真っ当な行動です。
しかし、500万円の投資案件には1億円の投資案件にない金銭的な尺度で測ることのできない経験が付随するとしたらどうでしょうか。
500万円の投資案件に投資しなければ一生経験することができない体験を味わうことができるとしたら。
この場合、答えは人によって変わってくることでしょう。
自分にとってその体験が1億円などというお金と交換可能な代物ではないと思うのなら、500万円の投資案件の方が「価値のある」投資です。
このように現実の世界では「物事の価値がお金によって統一化されている」という金融の仮定は成り立たないのです。

味気ない金融理論の仮定に惑わされて、500円の文庫本と20万円のブランド物のバッグとの値段のみを較べ、20万円のバッグの方が価値があるなどと言わないでください。物事の価値がお金のみで測れるわけはないのです。

1冊の文庫本がブランド物のバッグとは較べ物にならないほどあなたの人生を大きく変えることも往々にしてあるのです。

どうかお金という表面的な尺度に騙されないでください。
お金という尺度のみで物事の価値を測ろうとするのはあまりにも浅はかだと知っておいてください。
物事の価値はあなたが決めるのです。

個人的に私へメッセージを送りたい方、仕事依頼はこちらから。(成島)