「である」ことに安住してる僕らはいかに

緊急事態宣言解除後、初めて東京のコロナ感染者は3桁になりました。なんとなく日常に戻ってくるんじゃないかなって思ってる人も多いんだな。明らかに緩んでるもんね。

正直言うと僕は怖い。ビビりな性格ではありますが、外に出て今までと同じように友達と飲んだり遊んだりすることは生理的にできない。我慢。果てしなく続く我慢だけど、命に関わることは受け入れる。みんな頑張ろう。

高校現代文の締めくくりに、丸山眞男「『である』ことと『する』こと」を扱っています。抽象的なタイトル且つ、話が色々なところに飛ぶので本質的な理解が難しい教材ではありますが、日本における評論界で夏目漱石「現代日本の開化」「私の個人主義」と共に大きな影響力を持つ文章です。

「である」論理とは、簡単に言うと物事に内在する属性のことです。食べ物には味があるし、スポーツにはルールがある。民主主義にも規定があるわけですが、「である」状態とはその決まったことをただ認めている状態を示しています。

「権利の上に眠る者」という言葉が引用されていますが、私たちが与えられたものにただただ甘えている、言い換えるとあぐらをかいている状態のことを指します。そもそも与えられた権利について、詳しく知ろうとしない。選挙において多数の死票が生まれている現行の制度を理解していない。「私たちには権利が与えられている」という立場に満足し、批判的な思考を持たない。そうやって今まで生きてきた一人が、まぎれもない自分です。

改めて読み直して、50年以上経った今でも私たちが抱える問題は変わっていないんだなと思いました。「である」こと、大きく捉えると日本国憲法の存在が大きい。戦後の基礎となるこの憲法について僕らは考えていないんです。まあ、そんなマクロな視点を持てと言われても無理なくらい忙しいんですけども・・・。

そんな中で何の疑問も持たずに生きてきて、気付いたら30歳を過ぎたのが僕。と僕らの世代の人たち。色んなカルチャーに触れた。バブルは知らないから、お金の使い方とか楽しみ方は控えめだけど新しい世代に入った年代とも言えます。しかし、そんな中だからこそ「である」ではなく「する」ことを理解しないといけないんではないかなと。「する」ことの論理は、何かを「する」ことの重要性を示しています。

「する」って難しいけど、要は「知ろうとする」「疑問を持つ」って事なんじゃないかな。自分たちの生活を守るためには、自分たちでなんとか「する」。何ともならないかもしれないけども、それでも「する」ことの放棄をしない。漫然としない毎日を送ることが大切。しかし、何をすればいいのか分からないのも事実。だったら、変なことを突き詰めてみてもいいんじゃないの。根本的な疑問は皆が避けがち。でも、変わろうと思えば以外と変われるものですよ。避ける手間よりやってみる勇気だなって思います。

世界を変えることは出来ない、でも、自分の周りの世界を変えることは誰にだって出来る。それが「する」ってことなんじゃないかな。


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