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【ネタバレあり・解説なし】「正しさ」より強くなって生き残れ――映画「来る」感想と考察

2018年に公開された日本映画「来る」、アマゾンプライムで公開されていたので観ました。すごい映画ですこれは。
ストーリーは追わず、ややこしいところの解説もしません。演出の機微も語るべき点は数多ありますがあえてほぼ無視。本記事では、この映画で私が感じた「"社会的正しさ"という呪い」「カッケーーーーー!!!!!!」「正しくなくても望むことの強さ」について書きたいと思います。
酔った勢いで衝動的に書いているので、文脈も乱れているかも知れません。ちゃんとした文章が読みたいのであれば、あなたが視聴し、あなたが書けば良いのです。よろしくおねがいします。どうか。

あらすじの説明すらしません。未見のやつはとっとと見ろ!!!

1."社会的正しさ"という呪い

まずすごいのが、冒頭30分程度の「社会的に行うべき」集団儀式のクソウザさ。あるカップル(前半の主役・後の田原夫妻)の、結婚前の顔見世の意味合いも含む実家の法事で繰り広げられるのは男尊女卑地獄。特に「女だから」と無理やり手伝いに回された挙げ句「邪魔」と突っ返されるところ、キツすぎる。そして木村カエラの「Butterfly」に導かれ始まる、華やかなのにどこか羨ましく思えない結婚披露宴と二次会では「極悪人ではまったくないけどマジで仲良くなりたくない」と思わせる夫・田原秀樹の立ち振る舞いがリアル。ちょっと前のネットスラングで言う「キョロ充」に近いかも。

ここで村社会における"女の正しい振る舞い"、結婚における"男の正しい振る舞い"が描写されます。秀樹はやりがいを持って楽しみ(真意はわかりませんが)、妻・田原香奈は強烈な苦手意識を見せてしまう姿が映されます。

中盤の、祟りを軸に壊れていく夫婦生活でもそれは変わりません。夫・秀樹はイクメンブログが身内に好評で家庭そっちのけで没頭。次第に家庭自体を「ブログバズらせアドオン」として稼働させようとします。現実では辛辣な言動を、ブログでは美化された家庭を。ブログの筋書きのために、娘・知紗をダシに妻・香奈へ強要行為。しかしその姿は、周りによく見られようと必死なわけではなく、むしろ喜びを感じさせます。「育児すること」と「育児していると社会的に求められること」が逆転しているのです。ある意味ひたむきなその姿勢が、中盤以降の主人公であるライター・野崎のズレた好評価や、秀樹の自負につながっているのが後々の描写で読み取れます。

香奈は全く反対の末路をたどります。襲いかかる呪いと秀樹の態度に正気を保てなくなり、家庭を投げ出し、秀樹の知人・津田と不貞も働きます。そして夫の死後は自身も再就職。労働者、母(育児&呪いからの庇護)の両立に疲れ果てた彼女はすべてを投げ出して呪いから逃れる旅に出ますが、どことも知れぬ公衆トイレで娘を怪異に攫われ、自身も悲惨な最後を遂げます。ここでポイントなのは、彼女は決して自由にはなっていない、ということ。やりたいことをやった爽やかさは一切なく、「社会的に正しい"妻""母"」像の逆張りをしたに過ぎません。夫とは別のベクトルではありますが、「社会的正しさ」ベースの生涯を送ったのです。

それとコントラストを成すように描かれるのは、野崎と、未熟だけどホンモノの霊能者・真琴。
野崎は「大切なひと・ものを失いたくないから、手に入れない」が信条の男。以前、交際相手との子を中絶した経験がある(信条ゆえの中絶だったか、その逆だったかは不明。誰か教えて下さい)。淡々と、自分の役割など社会には存在しないかのように、思いつきと人情で行動しているように見えます。彼の信条は真琴の姉である超一流の霊能者・琴子と同じ、と琴子本人が指摘します。しかし、おなじ信条であっても土壇場の選択は彼らの人生を大きく左右します。

真琴は、超一流の霊能者・琴子の妹。霊能力は遺伝しないため、真琴には一切の資質が備わってないのですが、血の滲むような努力で能力を獲得。代償に生殖能力を失うだけでなく、怪異にとってツケ入る隙になる傷を全身に負いました。
日本旧来の村社会にとって、血統、生まれつきの資質というものは大きな意味を持ちます。琴子もそれを理由に真琴を半端者扱いしています。ド田舎で育った人間なら「兄貴と比べてアレはどうしてこうも不出来なんかね」「あの子は知恵遅れだから」「親はお医者様なのになんで息子は…」なんて言葉、聞いたことがあるんじゃないですか。そういった呪いをはねつけて努力で霊能者になったのが真琴なんです。また、真琴はひょんなことから知紗の面倒を見てから、以後まるで我が子のように可愛がります。

2.カッケーーーーー!!!!!!

中盤、怪異によって田原夫婦が呪い殺され、真琴と知紗の精神と肉体が攫われてしまいます。琴子はこれ以上の被害を阻止し、なおかつ2名を取り戻すため、旧田原家に怪異をおびき出し除霊する作戦を立て、日本中から腕っこきの霊能者を招集します。

もうこの流れがめっちゃかっこいいんですわ!!!!!!!!!!!!!!

特にかっこいいのが、神道と思しき4人組。神社でスーツ姿のままお祓いを受け新幹線で出発。他宗派が襲撃を受けたと知るやいなや、「誰か一人は生き残るやろ」と、自分たちが呪殺されることを当然に想定し降車駅を分散。当日はカプセルホテルで合流し着替え。都会の安っぽくて狭苦しい建物、ガラス越しの太陽光、神々しい装束。無言、無言……。

世界一かっこいいです。この空気感の素晴らしさは見た人はわかるはず。

そして複数の犠牲を出しながらも集結するやいなや、マンションと隣接の公園を封鎖し、除霊用の大掛かりな舞台を設置します。全員が除霊の御札を身に着け黙々と準備を進め、ドラマの撮影と勘違いした女子高生たちは除霊の御札をおでこに貼り、記念のセルフィー。

この!この危機感の極端な差異が同一空間に同居してる感じ!!!最高ですよ!!!!!!!!もし映画見てないくせにこの文章を読んでいるスキッツォイドマンがいたら今すぐこのページを閉じて本編を見て下さい!!!!!

3.正しくなくても望むことの強さ

マンション一体を巻き込んだ壮絶な除霊戦の中で、琴子は以下の2点を指摘します。
①怪異は人間の弱さにつけ込んでいること。
②若い生命力を求めている怪異と、寂しさ故に他者を求めている知紗が半ば一体化していること。
これらを踏まえ、琴子は知紗自体をこの世から追放することを提案しますが、真琴と野崎は断固拒否し、啖呵を切ります。その理由は田原夫妻や知紗本人に触れてきたことで生じた愛情です。

ここで、真琴と野崎は、同時に2つの選択をしています。
一つは、怪異が人類を呪ってしまうかも知れないという状況において、私情を優先するという選択。
もう一つは、自身が「子を産めないor育てられない」=「子を持てない」という事実に逆らって「知紗という子を持つ」という選択です。
田原夫妻とは全く逆の、"社会的正しさ"を捨てた選択です。「家族だからこそ守る」という役割を全うしようと奔走した秀樹、「正しく生きられないから逆張りする」と人生を捨てた香奈。

紆余曲折あり、琴子は真琴、野崎、そして知紗を逃し、一人で怪異に立ち向かい、相打ちに近い形でそれを撃退します。
メインキャラで生き残ったのはこの3人だけ。子供を産めないけれど、知紗を見守りたいと決意した真琴。子供なんていらないけれど知紗を愛してしまった野崎。愛する人にに愛される日々を送りたかった少女・知紗。ほかは生死不明か死亡です。
結局、"集団の正しさ"を捨てた人々だけが生き残ったように私には思えるのです。琴子も、目の前のこどもへの情より大義を優先した結果相打ちとなりました。他の人々も(招集シーンは世界一かっこいいですが)自分の生死より宗教者・霊能者としての役割を優先したからこそ死にました。結果論ですが。

4.まとめ

例えば韓国映画「パラサイト」ははじめからエンターテインメントと社会風刺を両立していた印象を受けますが、本作から社会的メッセージを導出しようとするのはあまりに早計かもしれません。しかし、私にはどうしても「社会的な正しさ」に拘泥することの警鐘が鳴らされていたように感じられてならないのです。

私は「この映画はこういう作品です」と言いたいのではないのです。「私はこんな作品だと思いました。あなたはどう思いましたか?」と聞きたいのです。肯定も反対も、何かあればぜひコメントかSNSでご連絡ください!

本垢

シャニマス垢

bancamp(ノイズ系アルバムリリース)


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