見出し画像

暮らしと学問 19 キュウリと経済学の邂逅、あるいは暮らしと学問の相互照射の意義

(はじめに)最近、ちょっとした手料理を始めたのですが、キュウリの価格が高騰していることに驚いています。今回は、キュウリの価格と経済学の接続について考えてみました。

キュウリ1本の価格の変化に驚きました

 一人暮らしに備えて食事を自分で用意しはじめまています。食事といっても晩酌用の総菜を用意するだけですから、たいしたものではありません。6月から始めたのですが、重宝しているのがキュウリで、たたきキュウリを毎日、食べています。適当に切ってタレと合わせるだけですが、旬ということもあり、毎日、キュウリは楽しく対話しております。

 キュウリに落ち着いた理由は旬だけが理由ではありません。それは価格でした(汗 6月から8月にかけて毎日キュウリ1本食べるのが日課となりましたが、安いければ128円から158円で3本購入することができ(地域差はあるとは思います)、重宝したものです。貧乏ですから(涙 晩酌には200円以上を浪費しないという自分ルールで運用しています。

 しかしですよ。

 今月になってから1本100円、3本で300円に高騰してしまいました。晩酌用の手料理のコストに余裕がある訳ではありませんので、家計を直撃というのはこういうことを言うのかも知れません。3ヶ月もキュウリを食べ続けるほどハマるとは思っても見なかったので、もう大変です。

日々の暮らしから超脱する経済学

 キュウリの価格の上がり下がりに、財布と相談し、晩酌の手料理の工夫に悩む毎日ですが、価格と財布の関係を見つめ直すことが、ミニマムな話ですが、経済学をひもとくきっかけにもなっています。

 第二次世界大戦後、経済学研究の中心が、イギリスからアメリカに移るにつれ、「価値判断から自由な経済学」(ライオネル・ロビンズ)の考えが支配的になってきたと言われています。具体的に言えば、経済学を数学的に構成しようとする立場で、形式論理による演算に重点が置かれ、現実の経済循環構造との対応を問題とするより、論理的矛盾性を検討するという方向への傾斜です。効率や効能の前には、倫理や礼節は無用という立場といっても良いかも知れません。

 数学的な形式論理の尊重が悪いわけではありません

 しかし数学モデルの蔟生への軽重は、経済学を日常生活やその日の暮らしと無縁、あるいは遊離してしまう傾向を帯び、私たちとは無縁の学問であるかのように映っています難しい話は、暮らしと関係ないという風潮は、暮らしと学問の分離、分断であり、そこに僕は、ある種の寂しさを感じてしまいます。

 なぜなら、暮らしと学問は決して無関係なものではなく、相互に照射しあうことでお互いを豊かなものへと転換させると考えるからです。

 その意味では、キュウリ1本から経済学を考えて見直すという契機は必要かも知れません。

学問の本来の目的は人間の幸せにこそある

 キュウリ1本から経済学を問い直す視座をもう少し具体的に述べるならば、それは人間を手段と見なすのではなく、目的と見なす立場の経済学と言ってもよいでしょう。そうした軌道修正を迫った経済学者が宇沢弘文さんです。
 宇沢さんは、そのきっかけとなったエピソードを次のように語っています。

一九六六年、アメリカの上院外交委員会によって開かれた公聴会のことである。アメリカの対外援助政策、とくにベトナム問題について、フルブライト委員長から批判的な質問がなされたのに対して、当時、国防長官であったマクナマラ氏がつぎのように証言したのである。マクナマラ氏は、まず、ベトナム戦争で投下された爆弾の量、枯れ葉作戦によって廃墟化された土地の面積、死傷した共産側の人数など、豊富な統計データを掲げて、ベトナム戦争の経過を説明した。そして、これだけ大規模な戦争を遂行しながら、増税を行うこともなく、インフレーションもおこさないできた。それは、国防省のマネジメントの改革などを通じて、もっとも効率的な、経済的な手段によってベトナム戦争を行ってきたからである。そのような功績をはたした自分がここで批判され、非難されるのは全く心外である、という意味の証言である。
(出典)宇沢弘文『経済と人間の旅』日経ビジネス人文庫、2017年、136ー137頁。

 マクナマラ氏は、効率よく戦争を遂行したことで、どうして批判されなければならないのかと憤ったそうですが、その光景を前に宇沢は「ことばに言い尽くせない衝撃」を受けたといい、その理由を「マクナマラ氏は経済学者ではないが、その主張するところはまさに近代経済学の基本的な考え方と通ずるものがあったから」と述べています。

 経済学は効率性の追求で人間の繁栄を展望する学問として生まれてきましたが、効率性の追求の結果、人間疎外を招き、現実の経済から遊離してしまったというパラドクスに陥ったという指摘です。マクナマラ証言から半世紀以上すぎましたが、現在のハゲタカ資本主義や格差の拡大も同じ現象かも知れません。

 私は経済学者として半世紀を生きてきた。そして、本来は人間の幸せに貢献するはずの経済学が、実はマイナスの役割しか果たしてこなかったのではないかと思うに至り、がく然とした。経済学は、人間を考えるところから始めなければいけない。そう確信するようになった。
(出典)宇沢弘文、前掲書、11頁。

 必要なことは「人間を考えるところから始めなければいけない」との指摘は、何も経済学に限定される問題ではないでしょう。神学、哲学、倫理学もしかりです。
 キュウリ1本から経済学を考えるといえば、おそらく学者は、「木を見て森を見ず」と考えるかも知れません。しかし、「森を見て木を見ず」というのが人間不在の学問の立場であるとすれば、「木を見て森を見ず」という契機も必要になってくるのではないでしょうか。それがキュウリ1本から経済学を考えるということになると僕は考えています。その刺激こそ、人間不在を修正するきっかけになるのではないかということです。

 そして、同じように、暮らしのなかの生活者は、「木を見て森を見ず」という前提で生活しているのであるとすれば、「森を見て木を見ず」という学問と対話することも同時に必要になってくると考えています。

 その相互の刺激こそ、今、必要とされていることではないか、と考えてみました。


氏家法雄/独立研究者(組織神学/宗教学)。最近、地域再生の仕事にデビューしました。