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徹底は気づかない

前回に続き、青森県立美術館の話。

日本のいろんな美術館や建築、場所に訪れた時に、人それぞれ違う感情が生まれると思いますが、僕は青森県立美術館に訪れた時は、「徹底された空間」というのを体と心ですごく感じました。

感じる、という言葉は個人的な偏った感覚で、理屈ではないようなのですが、今日は言葉にできる、その「徹底」を綴っていこうかと思います。

青森県立美術館の、その徹底ぶりは随所に僕は感じたのですが、その1つは館内のサイン計画でした。

あまり美術館では見ないような「傘立て」や「授乳室」などのサインもちゃんと建築を立てる段階で設計されていて、(後からその場所を作ったのではないというふうに捉えています)こんなところまで設計の段階で考えられているのかと驚いたのを覚えています。 ロッカー番号、キーにも、使用されていました。

また青森県立美術館にはシアタールームもあるのですが、その観覧席のマップにもフォントが使用されており、統一感、そして、「この美術館に来た」という特別感が記憶に残ります。


よく美術館にありがちなのは、サイン計画をデザイナーの方がちゃんとして、新しく美術館を開館したとしても、やっぱりどうしても長く、その美術館で働くスタッフさんのほうが、その美術館で起きることを知るようになります。

例えば「いつもここで観覧者が、引き戸なのか押し戸なのか迷うから、ここに[押す]のシールを貼ろう」→そして貼る。

美術館で働く方として素晴らしい気配りだと僕は感じるのですが、ただその付け足して貼った[押す]の文字が美術館のフォントとは違うのが地方の美術館でよくある、すごく大きな問題です。

何も悪いことではないし、より観覧者が気持ちよく美術館を体感するために大切なことなのですが、その[押す]シールを館内のフォントとは違うフォントで作り、貼る。初めからデザインされているサインの箇所はカッティングシートとだけど、その「押す」シールは透明のシールで黒のインクで印刷し貼っていたり…(あくまで想像です)

「押す」シールのフォントが違ったり、カッティングシートじゃないことは本当に小さく、些細なことでそんなこと気づかない、どうでもいい人の方が世の中には多いとは思うんです。

でも僕みたいにそんなことにも気付いてしまう、意識してしまう人もいるんです。

むしろいい空間、素晴らしい建築だからこそ、その細部にデザイナー、建築家の意識がちゃんと潜んでいるのかが、気になってしまうんです。

素晴らしい美術館全体の統一感が、そのシール1枚で崩れ落ちていくことを、デザイナー、建築家は知ってるからこそ、青森県立美術館の構想、設計の段階から密にこの建築をどのようにするのか、どこにサインを取り付け、どのようなルートで観覧するのかを、原寸大で検討し、徹底して計画したのではないか、と、ここに訪れた時に強く感じました。

なぜか違うフォントが一箇所だけに使われている。館内で迷う、わからなくなる、ということは、そこに意識が集中してしまう。それまで何も問題がなかったのに、その小さな迷いが作品を見るうえでのノイズになってしまう。

そこが押し戸なのか引き戸なのかわからないようにはしない。これは右に行くのか左に行くのかはサインで明確にする。トイレの位置、消火器の位置。いま自分がどこにいるのか、どこにいたのか。

付け足しで必要な情報がないように、徹底して検証、計画を練る。そこに意識が集中しないように。

これくらいでいいだろう、たぶんいけるだろう、そんなもんでいいじゃないか、などはそこにはなく、徹底して、作品を鑑賞する空間を作り上げる。

そうして作り上げた、迷いのない「徹底」は、そんなことに意識もしない人たちに、気づかれなくとも、この青森県立美術館に来て、作品を見たという特別感をちゃんと残してくれる。

「徹底」はひとつ欠けるだけで意識しない人にこそ、「徹底」して記憶に残す。

だから徹底して、なに1つとして迷いや、違和感を抱かせない。

今日はそんな徹底された青森県立美術館の話。

#デザイン
#グラフィックデザイン
#サイン計画
#建築

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