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山本英子さん - 一年の休暇にも”知”を生かす人


知財一筋のキャリア、1年間のサバティカル

大学院の機械工学科を卒業して最初に就職したのは、日立製作所の知的財産権本部でした。そこで日本の弁理士資格を取りました。30歳のときにシドニーに移住して弁理士事務所に就職し、オーストラリアの弁理士資格も取りました。そして現在は、政府系研究機関CSIRO(;Commonwealth Scientific and Industrial Research Organisation)、日本でいうと産総研にあたりますが、全豪で5,500人ほどの所員を抱えた大きな研究所の知財マネージャをしています。

弁理士は、新しい発明の発掘、知財の権利化(特許等)その他の保護(ノウハウ、著作権等)、権利化された特許等を用いたライセンス活動、行使(ときには訴訟にも至る)、それらにかかわるアドバイスを提供する専門家です。

知財は、R&D(研究開発)で生まれた知識を使ってビジネスをするためのツールです。適切な保護、権利化、デューデリジェンスなくしては、せっかくの発明も実用化の日の目を見ません。企業にとっては投資の無駄、社会にとっては技術の恩恵を受ける機会を逃すことにもなります。例えば、どれだけ優れた太陽光発電の発明をしても、その知財の保護・権利関係が不十分・不明確であればその技術への投資を得て実用化に結びつけることができず、社会の役に立つ機会は損なわれてしまいます。

様々な最先端の技術に、時にはそれが世に出る何年も前から触れることができることは、弁理士の特典です。特許の寿命は20年ですが、新人の頃に特許取得に関わった技術がその後実を結び、最初の特許権が切れた後までますます社会の役に立つ製品に成長したことを知ったときの感慨は忘れがたいです。また、特許権の行使に関わった発明のもたらすライセンス収入が、次世代のR&Dや社会実装への元手となり「研究→権利化→知財収入(ライセンス、スピンアウト等)→研究」というサイクルを実際に体験できることも、研究所所属の知財マネージャの仕事の醍醐味です。

普段はシドニーに住んでいますが、2023年の夏から1年間、夫のロンドン駐在に帯同するため、研究所と交渉して休暇をもらいました。ロンドンでは本職に関係する仕事はできないので、基本は家にいて8歳の娘と向かい合う時間を楽しんでいます。また、週に2回ほど、サウス・ケンジントンにある自然史博物館(Natural HistoryMuseum)の植物標本庫(Herbarium)で学芸員のボランティアもしています。

自然史博物館でのボランティア

携わっているのは植物標本のコレクション*をデジタル化するプロジェクト**です。

博物館には、一般市民に展示物を提供するという教育面のミッションの他に、研究のプラットフォームとしての役割もあります。それらすべての基礎となる大切な標本の適切な保管・情報提供を担うのが、学芸員。ボランティアとはいえ貴重なコレクションに触れる責任を伴う仕事なので、実務にはいる前にしっかりしたトレーニングを受けました。そこで新しく学んだことがとても興味深かったので、ここで少し紹介します。

英国で最も有名な博物館といえば 大英博物館(British Museum)ですが、ロンドンの自然史博物館というのは、もともとは大英博物館の自然史の部分(恐竜や動植物の骨や剥製、鉱石など)が分館されてできたものなのです。また、その生きている種や苗が集められたのが、ロンドンの東にあるキュー・ガーデン(Royal Botanic Gardens, Kew)です。いずれもその気になれば丸一日楽しめる、素晴らしい博物館・植物園です。

かつて17〜18世紀のエンライトメント(Enlightenment、啓蒙思想)の時代、大英帝国には「プラント・ハンター(Plant hunter)」という職業がありました。時は大航海時代。彼等は世界中に探検に出かけ、あらゆる植物の種や苗を持ち帰りましたが、その目的は人の文明に役立つ植物…良い建材や薬になるもの、また、イギリス人が大好きなガーデニングに供する植物を探し出し、それを社会に実装することでした。

たとえば、現在ロンドンの歩道にはプラタナスやマロニエの大木が立ち並び、春夏には気持ち良い木陰を作り、秋には色とりどりの枯れ葉を石畳の上に落とします。でも、実は、ブリテン島にはもともと紅葉樹はありませんでした。「イングリッシュ・ガーデン」といえば基本は緑だけで、春夏に花をつけるものだったのです。寒くなると赤や黄色に葉の色を変える木々や蔦は、エンライトメントの時代以降に外国から持ち込まれ、根付いたものなのです。

当時、広大な植民地を領有した大英帝国は傘下の国々にも研究の協力を求めました。だから今もコモンウェルス加盟国*(Commonwealth of Nations)には王立植物園(Royal Botanic Gardens)が多くみられます。それ以外の国々でも、とにかく行く先々で植物収集をしていたようで、日本が鎖国中に長崎周辺で収集された植物や、明治維新で開国したとたん、官民あげて植物や人類学の標本収集に励んだ様子も、ロンドンの自然史博物館の植物標本庫のコレクションから見て取ることができます。

*コモンウェルス・オブ・ネイションズ、通称:コモンウェルスは、かつて大永帝国の植民地であった50超の加盟国から構成される、イギリス君主を長とし、メンバー諸国の脱退も認められた緩やかな国家連合

表に展示されているものは、所蔵標本のうちのほんの一部です。裏の保管庫には、プラント・ハンターが持ち帰ったものや個人から寄贈されたたものなど、大量の宝物が眠っています。今私が任されているのは、デジタル化の手前でそれらを一つ一つ取り出し分類する整理作業です。200〜300年近く前に北米の奥地で誰かが採取した美しい植物。その時の状況や書かれた、様々な手書きのメモを読み込み分類するのは、地味ですが尊く、興味の尽きない作業です。

植物標本は、古いものでは1700年代のものもあります

実は近年、地球規模の気候変動が進む中で、この大量のコレクション、コモンウェルスの知的ネットワークが、改めて脚光を浴びる風向きが出ています。

植物標本庫には、どこにどの時代に(すなわち、どのような環境下で)何が生えていたのか、という情報が含まれていて、例えば、この先、気温上昇や気象現象の激化に伴って各地域で栽培に適した植物を探すための重要なヒントが隠されています。そのヒントを探し出すためには、一点一点の標本の保存状態、標本庫全体の管理、アクセスの容易化(オンライン、デジタル)が肝要です。蓄積されたデータも、活用できなければ宝の持ち腐れです。

世界中の博物館でデジタル化が進み連携が模索されているのは、そのような、過去の人たちの探究や知恵をつないで社会実装に結びつけるためのあゆみなのです。

機械工学科の出身で、一貫して機械系・IT系の知財活動に関わってきた私には、ガーデニングはもとより植物学への興味はゼロでした。でも、始めてみたらなかなか奥深い世界だと気づきました。また、知識を単なる知識としておくのではなく社会に役立つものにする道筋を作るという意味で、このボランティア活動にも、本業の知財管理の仕事に通じる点を見出しています。

母のあこがれの地へ移住した経緯

私と夫は、親の世代がそれぞれ日本・中国からオーストラリアに移住した、いわゆる移民2世です。いま私たちは1年間の期限付きで、8歳の娘を育てる環境としてのシドニーとロンドンの比較を楽しんでいます。

私が12歳の時に、父がオーストラリア駐在の機会を得ました。日本を出たことがないのになぜかオーストラリアに憧れていたという母も大喜びで、家族で移り住んだシドニーで、私は中高時代を過ごしました。思い返すと、その時、親が非常にポジティブな雰囲気を作ってくれたことは、私と妹がうまく乗せられて、その後本格的に移住するに至った最初の大きな一歩だったと思います。とはいえ高校生時代にはまずは祖国への思いがあって、帰国子女として東大に進学しました。それで卒業後も自然に日本企業に就職しました。

再びオーストラリアに戻ったのは30歳手前の時でしたが、きっかけは離婚でした。25歳で最初の結婚をしたのですがそれがちょっと早すぎたようで…。当時、次の仕事を決めないまま会社を辞め家族のいるシドニーに戻ることを決意したのですが、そこで間をおかずに弁理士事務所にポジションを得ることができました。

運がよかったのは、当時のオーストラリアの弁理士事務所からみて、日本は特に魅力的な、進出先のクライアント国だっていたという時代背景があります。だから日本の弁理士という専門性を買ってもらえたのですが、これがもし他の国の出身であればすぐに職を得るのは難しかったかもしれません。

個人的な趣味は登山です。もともと運動に縁のなかった私ですが、29歳のときにはじめて登山靴を買い屋久島の宮之浦岳に登ってから登山にはまりました。いろんなスタイルの山歩きが好きで、登山を通して今の夫にも出会いました。

子供が生まれてからも、幼児をリュックで担いで出かけるほどの山好き夫婦なのです。英国には高い山はありませんが、ロンドン滞在中はヨーロッパならではのハイキングを楽しんでいます。

世界最北の村・ノルウェー領スヴァールバル(Svalbard)にて(2023年)ホッキョクグマが出没するので、銃を持ち犬を連れたガイドなしでは村を出られない土地にもトレッキングに行きました

今年の年末年始はリレハンメル(ノルウェー)でノルディック・スキーを楽しむ予定です。それに向けて今はローラースキーで特訓をしています。夕方のハイドパークでスイスイ(?)と滑っているアジア人の家族を見かけたら、それは私たちかもしれません。

シドニーに戻ると復職してまた忙しくなりますが、期間限定であるからこそ、1年間のロンドン暮らしはめいっぱい楽しんでいます。目に入るもの何でも面白いです。

国境を超える人生を娘にも 

こうして振り返ると、私は東京大学で工学を学んだことが知財の世界に入るきっかけになり、弁理士資格の取得したことが豪州での就職に役立ち、さらに豪州でも弁理士資格を得たことが豪州の永住権取得に役立ち、夫婦の職業の選択(起業・転職等)がロンドン滞在への道筋を作ってくれました。

新しいことに挑戦するたび、この学校、この勉強、この職場、この職業が「自分に何を与えてくれるのか」を考えてワクワクしますが、一方で常に「女の子が東大に行ってどうするの」「理系の大学院に行った後は」「日本を離れたら再婚できないよ」というような外野の声もありました。だけどある意味セルフィッシュに自分の人生を選んで来たことで、今の自分があると思います。

ダイバーシティは企業だけではなく、個人の中にも必要なものです。気になることになんでも挑戦していると、それがのちに路線変更をする際の自信につながります。様々なことを経験して自分の内にダイバーシティを持つことが、変化し続ける社会に対して、柔軟に貢献し続けることにもつながると感じています。

結果論かもしれませんが、親が私に与えてくれた最も大きなものの一つは、外国に住む選択肢を現実的に示してくれたことだと思います。家族の将来のためによりよい居場所を求めて移住に踏み切った親の背をみて、自然と、生計が立てられるなら新しい国に住んでみたいと考えるようになりました。

国・世界情勢はどんどん変わっていきますから、いまの自分にとって良い住処がいつまでもそうあり続けるとは限りません。娘にも「生まれ育った国=その先一生住み続ける国、とは限らない」ということを伝え、心の赴くままに軽々と国境を越えられる人生を歩んでもらいたいです。